北本市史 通史編 原始

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第1章 火山灰の降る中で

第4節 北本の旧石器人

八重塚の旧石器人
市内で旧石器時代の遣物が検出されている遣跡としては、八重塚遺跡(やえづかいせき)・諏訪山南遺跡(すわやまみなみいせき)・提灯木山遺跡(ちょうちんぎやまいせき)の三遺跡が知られている。ここではまず、市内で初めて旧石器時代の遺跡が確認された八重塚遺跡から紹介してみよう。
八重塚遺跡は、かつては農林水産省農事試験場、現在は北里研究所メディカルセンター病院が位置している付近で、東・北・西側を谷津(やつ)によって囲まれた台地上に展開している。台地の北西端には八重塚古墳群(原始P四九四)が、台地の基部には堀ノ内館跡(古代・中世P三〇八)が分布するなど、市内でも特に遺跡が集中し、時期的にも旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代、さらに中・近世期にいたる複合遺跡である。

写真5 八重塚遺跡出土の石器

①A区ナイフ形石器 ②C区ポイント ③④D区ポイント ⑤⑥⑦B区剥片接合例(表面・側面・裏、面)

図8 旧石器時代の八重塚遺跡

高橋もえみ図

昭和六十一年(一九八六)には、北里研究所メディカルセンター病院の建設に伴う大規模な発掘調査が市教育委員会によって実施され、旧石器時代の遺物・遺構がA区からD区にいたる各調査区で検出されている。
A区では、小形のナイフ形石器(写真5-①)および礫群(図5)が検出された。このナイフ形石器は全長二・六センチメートル、幅一・〇センチメートル、厚さ〇・三センチメートルで、透明度の高い黒耀石(こくようせき)を用いている。礫群は長径八〇センチメ—トル、短径五〇センチメ—トルの規模で、二四個の礫からなっている。礫は比較的大きく、中には全長が三〇センチメ—トルに近いものもある。ほとんどが火を受けて赤味をおび、亀裂(きれつ)が生じて破砕(はさい)したものが多い。石蒸(いしむ)し料理風に調理した跡と思われ、市内では目下(もっか)のところ唯一の検出例である。
B区では、石器の集中するユニットが一か所検出された。南北三・六メ—トル、東西二・八メートルの規模で、チャートを主体とする石器三八点からなる(図9)。粗製のナイフ形石器一点・石核一点を含んでいる。剥片(はくへん)のうち五点は接合し、剥片をはぎ取る手順の一端が確認できる(写真5—⑤⑥⑦)。

図9 八重塚遺跡B区ユニット

C・D区では、それぞれニ点ずつ尖頭器(せんとうき)が検出されている。特にC区で確認された一点は優品で、製作技術の水準の高さに驚かされる。全長四・一センチメートル、幅一・七センチメートル、厚さ〇・五センチメートルで、透明度の高い黒耀石(こくようせき)を使用している(写真5—②)谷を見下す台地べりで、動物の狩りに使用されていた槍先である。D区出土の尖頭器は黒耀石製で、二点ともに未製品で、製作中に折損(せっそん)したまま廃されたものと考えられる(写真5—③④)。したがって、石器の製作跡が付近に存在している可能性を示しており、ぜひ製作跡を確認したいものである。
さて、八重塚遺跡C・D区や諏訪山南遺跡(すわやまみなみいせき)の資料は、黒耀石製のものである。もちろん黒耀石は県内周辺では産出しない。産地としては、長野県和田峠(わだとうげ)や伊豆七島の神津島(こうづじま)などが有名であるが、八重塚の石器がどこの産地であったとしても、遠方から人の手を介しながら運ばれてきたことに変わりはない。切り立った断崖絶壁(だんがいぜっぺき)に囲まれた高台をかっ歩していた八重塚の旧石器人も、すでに他地域の人々との交流を経つつ文化を築いていたのである。

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