北本市史 通史編 原始

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 原始

第1章 火山灰の降る中で

第2節 大宮台地にやってきた人々

人類の誕生と日本人の起源
人類が初めて地球上に姿をあらわすのは、今から約三〇〇万年以上も前にさかのぼる。地質学でいう鮮新世(せんしんせい)(五一〇万年前~二〇〇万年前)の終わりごろのことである。次の洪積世(二〇〇万年前~ー万年前)に入ると、急速に気温が低下し、四回にわたる氷河期がおとずれることはすでに述べた。人々はこの厳しい自然環境の中で多くの困難に立ち向かい、それを克服していくことで急速な進化をとげたのである。洪積世が「人間紀」とも呼ばれるゆえんであろう。
さて、人類の起源や進化の過程については、形質人類学(けいしつじんるいがく)による化石人骨の分析や、人類に近いサルの仲間(霊長類)(れいちょうるい)の比較研究などから、おおよその枠組みが明らかにされている。これによると人類は、猿人・原人・旧人・新人と四つの群に分類され、その四段階を経て現在のわれわれへと進化しているのだ。
ヒトとサルとの違いを比較したとき、まずあげられるのが二本足で立って歩くという点だ。チンパンジーやゴリラなどの類人猿(るいじんえん)も立って歩くことはできるが、歩けることと常に歩いていたこととの差は大きい。人類は二本足で歩くことによって、手(前足)が自由になり、開放された手でしだいに道具をつくり、それを活用するようになっていった。いよいよ文化のはじまりである。
最古の人類である猿人は、アウストラロピテクスと呼ばれる仲間で、一九二四年以降、アフリカの東部地域を中心に続々と化石が発見されている。なかでもタンザニアのオルドゥヴァイ遣跡は、ー九五九年に人骨とともに礫器(れっき)(丸い石の一端を打ち欠いて刃にした石器)が出土して世界的に有名になった。こうした石器の中には、二六〇万年前のものと年代を与えられているものがあるという。アウストラロピテクス類は、これまでにアフリカ大陸以外からは発見されていない。人類はアフリカの大地で産まれたのである。
そして約一五〇万年前に原人が出現するころになると、ヨーロッパやアジア大陸へも居住圏を広げるようになる。約五〇万年前には、アジアにも北京原人(シナントロプス)、ジャワ原人(ピテカントロプス)が、ようやく到達する。さらに旧人(ネアンデルタ—ル人)が約二〇万年前に現れ、いよいよ、わたしたちの属する新人へと進化するのである。
それでは、人類がはじめて日本列島に現れたのはいつごろのことで、はたしてどのようなヒトだったのであろうか。これまでの研究によると、日本最古の人類は約三万年前ごろ、新人の段階と考えられていた。ところが近年、宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎいせき)や馬場檀遺跡(ばばだんいせき)をはじめ、関東でも多摩ニュータウンNo.四七ーB遺跡など、三万年を優にさかのぼる石器群の発掘調査があいついでいる。「北袋の崖(がけ)」でいえば、武蔵野・下末吉(しもすえよし)ロームに相当する層位である。こうした成果から日本にも「前期旧石器時代」が存在していたことがほぼ確実視されるようになり、日本人の起源もぐんとさかのぼって考えられるようになったのである。馬場檀A遺跡最下層の年代が、理化学的分析から二〇万から一五万年前という数値が与えられており、今後若干の修正が見込まれるとしても、日本に旧人段階の人類がすでに生活していたことは、もはや疑う余地はないといえるだろう。
しかしながら、日本では化石人骨の出土がきわめて少なく、石器などの遣物とともに発見された例は、大分県本匠村(ほんじょうむら)の聖巌洞窟(ひじりだけどうくつ)の聖嶽人(一九六一)、同県の岩戸遺跡(一九七八)の二例にすぎない。また人骨の単独出土の場合も、沖縄県具志川村(ぐしかわむら)の港川から一〇体分ほどのまとまった人骨(港川人)が発見されたほかは、牛川人(愛知県)・三ヶ日人(みっかびじん)・浜北人(はまきたじん)(静岡県)などの断片が出土している程度である。これらは洪積世の終わりごろ(五万年前~二万年前)の新人であると推定され、わずかに牛川人のみが旧人としての可能性があるらしい。いずれにしても現在の日本では、最古の遺物が発見されている洪積世中期(五〇万年前〜一五万年前)の原人・旧人段階にさかのぼる先住者については不明な点が多く、日本人の起源は厚いベールに隠されたままなのである。

<< 前のページに戻る