北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第2節 時期区分と土器の変遷

縄文土器の変遷と市域の出土傾向
土器は、様ざまな要素から成り立っている。胎土(たいど)、焼成(しょうせい)、器形、施文具(せもんぐ)と施文具を使って施した文様、文様が構成する文様帯などである。それらの要素が刻々と変化していくが、いつも決まった仕方で変化していくわけではない。胎土の混ぜ物である石粒や雲母(うんも)などが変化したり、含有量が変化したりする。器形がすっかり変わることもあれば、括(くび)れの度合が緩(ゆる)くなったり強くなったりするだけのこともある。あるいは底部のつくりが尖(とが)っていたり、平らだったり、上げ底だったりするのである。文様の方も平面的であったり、粘土紐を貼りつけて立体的であったりするのである。大きな変化もあれば、ある部分だけという小さい変化もある。現在の土器型式の認識の仕方は、長い研究史を反映して、内容も表記形も一定していない。基本的には、型式を成り立たせている重要な構成要素が異なっている場合は大区分として型式名を付し、型式を異にするほどではない変化の場合はⅠ・Ⅱ・Ⅲの記号を付し中区分している。中区分を越えない範囲での変化の場合はa・b・cを付し小区分する。さらに小区分を越えない変化と認識する場合はC1・C2と区分することもある。I・Ⅱ・Ⅲのローマ数字ではなく、アラビア数字の1・2・3を使っているのは研究史が反映されているためであり、a・b・cではなく、<古><新>や出土遣構名を付した<段階名>で呼ぶこともある。型式名を与えられた土器は日常的に使われる一定の分布域をもっているが、地理的広がりは型式毎に広狭様々である。汎関東的(はんかんとうてき)という広い型式もあれば、茨城県の霞ヶ浦周辺だけという狭い型式もある。さらに狭い地域色をもつ型式もある。多く、分布域外からの剌激による外的要因で変化する場合は新型式土器へ移行し、内的要因の場合は同一型式内での変化となる。したがって市域の遺跡でまとまって出土した土器も、時間幅と様々な地域の影響を受けた土器なのである。その全てについて認識されているわけではなく、今後の研究に待つ部分が多い。図12は、市域を中心にした土器型式名と文物の変化の概略である。
<草創期(そうそうき)>
全国的に断片的な出土が多く、手探りの状態が長く続いていた。一旦は、文様系統から、隆起線文系土器→爪形文系土器→多縄文系土器と変化すると予想されたが、近年まとまった出土例が増え、どうもそのように単純に土器が変化しないことが明確となってきた。最新説では草創期以前に「遡源期(そげんき)」を設定することが提唱(ていしょう)されている。
草創期の土器は、器厚が二〜四ミリメートルと極めて薄く、胎土・焼成は堅緻(けんち)である。器面は凹凸が著しい。器形は概して小形を呈し、底部は丸底・平底が知られているが、隈丸方形の平底が特徴的である。地域性を持っているが早期以降とくらべればまだ少なく、全国的に類似する土器である。
市域からは草創期の土器はいずれもまだ発見されていないが、近隣では桶川市の後谷遣跡(うしろやいせき)で多縄文系(たじょうもんけい)土器のうちの押圧縄文土器(おうあつじょうもんどき)が多量に出土している。多縄文系土器は、縄文を回転せずに器面に押し付けて施文する押圧縄文土器と回転縄文土器が知られており、前者から後者へ変化する。また、高尾の宮岡氷川神社前遺跡(原始P三七九)から草創期の有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が出土していることから、市域での彼らの活動はなされていたことが分かる。早晩(そうばん)市域でも土器が発見されるであろう。
<早期>
草創期の資料が稀少(きしょう)であるのに対して、早期の造跡は県内全域に分布するようになる。土器にも地方色がみられるようになる。文様系統から撚糸文系土器(よりいともんけいどき)→沈線文系土器(ちんせんもんけいどき)→貝殻条痕文系土器(かいがらじょうこんもんどき)→擦痕文系(さっこんもんけい)の土器に把握されている。これらの土器群の他に、撚糸文系と沈線文系をつなぐ無文土器群、中部地方に中心を持つ押型文土器(おしがたもんどき)が存在する。
撚糸文系土器は井草(いぐさ)I式→井草Ⅱ式→夏島式(なつしましき)→稲荷台式→稲荷原式→東山式という編年序列である。撚糸文(細い棒に撚り糸を巻いて、土器面に回転施文した文様)あるいは縄文を器面全体に施文する土器である。器形は砲弾型で、底部は尖底(せんてい)を呈する。関東地方を中心に分布する地域色の強い土器である。稲荷原式は西部関東地域に分布し、東部関東には別型式土器が分布している。撚糸文系土器最後の東山式土器は、口縁部に細い沈線が巡るだけの土器であるが、胎土が砂粒に富んだ撚糸文特有の胎土と焼成(しょうせい)で、文様的にも稲荷原式から系譜(けいふ)を辿(たどる)ることができる土器であり、撚糸文系土器に含んで認識している。市域では井草Ⅱ式、夏島式、東山式が断片的に出土している。
沈線文系土器は、三戸式(みとしき)→田戸下層式(たとかそうしき)→田戸上層式に細分されている。丸刀や切り出し形の彫刻刀のような施文具で施した沈線文と、ハイガイ・サルボウなどのアナダラ属の貝殻による文様を特徴とし、底部が鷲鼻状(わしばなじょう)の尖底になる。市域では田戸下層式が断片的に出土している。
貝殻条痕文系土器は、子母口式(しぼぐちしき)→野島式(のじましき)→・鵜ケ島台式(うがじまだいしき)→茅山下層式→茅山上層式に細分されている。アナダラ属の貝殻による器面調整の結果できた条痕文様を特徵としている。また、胎土に植物繊維を混入することによって輪積みの繋(つなぎ)がよくなって、大形土器が増えるとともに底部が平底となってくる。市域では野島式と茅山下層式がやや多く出土している。
貝殻条痕・擦痕文系土器は、打越式(おつこししき)→神之木台式(かみのぎだいしき)→下吉井式がある。茅山上層式以後の早期末葉になると、条痕文土器とともに擦痕文土器が増加し、文様は東海地方の影響を強く受けるようになる。関東地方独自の土器が少なく、東海地方の編年を援用した細分が行われている。市域ではまだ確認していない。
<前期>
前半から中葉まで羽状縄文系土器(うじょうじょうもんけいどき)が続き、後半は竹管文系土器(ちっかんもんけいどき)が占める。
羽状縄文系土器は、早期に続き胎土に植物繊維を含んでいる。縄文土器とはいっても中には文様に縄文が無い型式もあるが、羽状縄文系土器は文様に縄文を多用し、文字どおり縄文土器の代表である。細かい変化が辿(たど)れるほど細分が進んでいる。花積下層I式(はなづみかそう)→花積下層Ⅱ式→花積下層Ⅲ式→ニッ木(ふたつぎ)I式(新田野段階(にったのだんかい)→深作東部遺跡群(ふかさくとうぶいせきぐん)D区五号住段階に二細分)→ニツ木Ⅱ式→関山I式(関山一号住段階→貝崎B区三号住段階に二細分)→関山Ⅱ式(貝崎A区八号住段階→貝崎A区九号住段階に二細分)→関山Ⅲ式→黒浜(くろはま)I式→黒浜Ⅱ式→黒浜Ⅲ式に細分されている。胎土に多最の植物繊維を含有し、器面の文様に縄文が極度に発達する土器群である。関山式土器からは深鉢形土器だけではなく、浅鉢形や片口注口土器(かたくちちゅうこうどき)が普及し始める。土器の機能分化が本格化してきたのである。市域では花積下層I式、ニッ木Ⅱ式、関山I式、関山Ⅱ式、関山Ⅲ式が出土しており、高尾の宮岡II遣跡(原始P三六八)ではニッ木Ⅱ式がまとまって出土している。このころから市域での活動が活発に展開されるようになるのである。
後半の竹管文系土器は、諸磯(もろいそ)a式→諸磯b式(b1式→b2古式→b2新式→b3式に四細分)→諸磯C式→十三菩提式(じゅうさんぼだいしき)と細分している。胎土に繊維を含まない土器群で、文様の施文に竹管文を多用する土器である。市域では各式が出土しているが、下石戸下の氷川神社北遣跡では諸磯a式期の住居跡を調査している。
<中期>
五領ケ台式(ごりょうがだいしき)→勝坂(かつさか)Ⅰ式→勝坂Ⅱ式→勝坂Ⅲ式→加曽利(かそり)EI式→加曽利EⅡ式→加曽利EⅢ式→加曽利EⅣ式に細分している。厚さがーセンチメートル余りある厚手の大形土器が中心である。器面に粘土紐を貼りつけて蛇行する立体的な文様を描き、口縁部には大小の突起や把手を付けている。縄文土器の中で最も華やかな土器である。勝坂式土器には茨城県霞ケ浦周辺に主分布域がある阿玉台式土器(あたまだいしきどき)が少なからず伴出する。加曽利E式土器は市域では各式が出土しており、とくに加曽利EⅡ・Ⅲ・Ⅳ式期では古市場の上手遣跡(うわでいせき)(原始P五九八)や下石戸下の氷川神社北遣跡、ニッ家・中丸の提灯木山遺跡(ちょうちんぎやまいせき)、荒井の八重塚遺跡(やえづかいせき)(原始P四四七)A区で住居跡や集落跡を調査している。

図12 縄文時代の文物変遷図

<後期>
土器は、称名寺I式(しょうみょうじ)→称名寺Ⅱ式→堀之内(ほりのうち)I式→堀之内Ⅱ式→加曽利(かそり)B1式→加曽利B2式→加曽利B3式→曽谷式(そやしき)・高井東(たかい)I式→安行(あんぎょう)I式→安行Ⅱ式に細分されている。薄手に作られ、丁寧(ていねい)に作られた精製土器と、やや雑に作られた粗製土器とがある。土器に機能分化が見られる。精製土器は磨消縄文(すりけしじょうもん)により、幾何学的文様が描かれ、きわめて滑らかな器肌をした、きれいな土器が多い。粗製土器は煮沸用(しゃふつよう)の土器である。市域では称名寺I式が下石戸下の台原(だいはら)Ⅲ遣跡(原始P五七五)、上手遣跡から良好な資料が出土しているのと、加曽利B1式の破片が高尾の宮岡氷川神社前遣跡から多量に出土している。
<晩期>
安行Ⅲa式→安行Ⅲb式→安行Ⅲc式→安行Ⅲd式→千網式(ちあみしき)→荒海式(あらみしき)に細分されている。安行Ⅲa式の精製土器は、磨消縄文技法による入り組み文などが施文され、磨かれた美しい土器が多い。東北地方の大洞式(おおぼらしき)の影響を受けた土器も多い。安行Ⅲb式以降だんだん縄文が施文されなくなり、安行Ⅲc式ではまったく縄文を使用していない。そして安行ⅢC式をもって関東地方独自の土器は終わってしまい、続く千網式・荒海式は浮線網状文(ふせんあみじょうもん)や撚糸文が多用され、いずれも東北地方の影響を強く受けた土器である。市域では宮岡氷川神社前遣跡が大きな遣跡であり、各式が出土している。が、最終末の荒海式は見つかっていない。これは市域に限らず、関東地方全域の現象で、縄文時代最終末に人口の激減が予想される。

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