北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第4節 集落をつくる

北本市域の遺跡の立地
市域の縄文時代遺跡はどのような地形の場所にあるのだろうか。遣跡は、当時の人々が、何らかの行動を展開した痕跡(こんせき)である。日常生活の跡であったり、墓地であったり、また必ずしも人工の遣物が残っているとは限らない、遺跡がどのような地形の所にあるか、つまり立地からも縄文人の生活を偲(しの)ぶことができる。図14は、縄文時代遺跡の分布図である。三方に谷が入り舌状(ぜつじょう)を呈した台地の縁に多くあることが看取(かんしゅ)できる。台地中央部の広々とした平坦地に住居を構えてもよさそうなものであるが、いずれの台地でも縁(へり)や先端部に遺跡がある。大きな台地でも同じである。これにはいくつかの理由が複合していそうだ。一つは台地の下に水が湧き出しているからである。人間は水さえあればーか月間ぐらいは食物がなくても生きていけるが、水がなければ一〇日間ぐらいで生命がつきてしまう。水は生命を維持するために絶対欠かせないのである。その大事な水を汲(く)むのは女性や子どもの役割であったろう。台地の下まで降り、土器に水を満たし、その土器を持ってまた登ってくる。それも日に一度や二度ではあるまい。大変な労力を要する水汲みに便利な位置に占地したのである。また、主食となる堅果類(けんかるい)を水晒(みずさら)しするのに、多量の水が必要であるから、水辺に近い方に占地したのである。二つ目に、縄文集落は長く続くと中央に広場を形成している。広場の周囲に家を作っている。環状までいかなくとも、弧状に家々が配置され、中央はやはり広場として利用しているのである。最初に移り住んだ一、二軒の家族の、将来そのような景観・機能をもった集落を作るための計画的配置であったのかも知れない。三つ目には、後背地(こうはいち)の林を大切にした結果かもしれない。林には獣が棲(す)み、鳥が棲み、根茎類(こんけいるい)があり、木々は燃料源、縄文人の生活は林を切り離しては成立し得ないのである。林あっての生活であったから、台地の奥は開発しないようにし、現在の屋敷林のように、保護・活用したのではないだろうか。また、森や林の木を伐採(ばっさい)して開地するには、台地の縁から着手するのがたやすかったなど、いくつかの理由がありそうだ。それらの理由のうちどれが優先すると言うことではなく、複合的に作用しているのであろう。

図14 北本市の縄文時代遺跡分布図

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