北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第6節 まじないと信仰

まじないの道具
まじないに使用した道具には、身に付けて使用したものと、家の中や屋外に据(す)えて使用したものがある。身に付ける道具にはヘアピン、櫛(くし)、髪飾り、耳飾り、首飾り、垂れ飾り、腕飾り、腰飾り、土版(どばん)がある。まず石製の玦状耳飾(けつじょうみみかざ)りが早期末に出現する。最初は指抜き形で、前期には扁平(へんぺい)な形となり、中期には厚みのある円形となり、中期前半で消滅する。リングの一部に切れ込みがあり、中国の玉器である玦(けつ)に似ているところから命名したものである。市域では下石戸下の氷川神社北遺跡で前期の玦状耳飾りが出土している。耳飾りは中期中葉以後はすベて土製となり、まず臼形が現われ、後期後半にはリング状、末葉には滑車型(かっしゃがた)となり、晩期には透かし彫りのある滑車型に変遷する。高尾の宮岡氷川神社前遺跡(原始P三七九)からは、透(す)かし彫(ぼ)りのある見事な耳飾りが出土している。これらの耳飾りは、耳たぶに穴を開け挿入(そうにゅう)したのである。後期後半までは出土数が少なく特定の人が身につけたと推察されるが、後期末葉から晩期前半には数量が多く、広く装身に使用したものであろう。
下石戸下の氷川神社北遣跡からは前期の滑石製の径ーセンチメートルほどの扁平な玉が出土した。数は少ないが、首飾りである。
中期には頸からぶら下げた垂れ飾りが現われる。ペンダントである。高尾の阿弥陀堂遣跡からは硬玉(こうぎょく)(ヒスイ)製大珠(せいたいしゅ)の未製品が出土した。海岸で採集したままの状態で持ち込まれ、周囲を磨いたものの穿孔途中(せんこうとちゅう)で放棄したようである。硬玉は特殊な石材であり、技術的に難しかったのかもしれない。氷川神社前遺跡にも、後~晩期の硬玉製垂れ飾りがある。
土版は、板状で両面に文様がある。中には端部に小孔が二つ開けられていることがあり、このタイプは紐(ひも)を通し、

図18 耳飾りと垂れ飾り他 阿弥陀堂遺跡・氷川神社前遺跡

(1けつ状耳飾、2・3土製耳飾、4土製額飾り、5硬玉製大珠、6玉斧、7硬玉製垂れ飾り、8・9小玉、10垂れ飾り、1・8・9氷川神社北遺跡、5阿弥陀堂遺跡、他は宮岡氷川神社前遺跡)
装身具はまじないの道具である。ことに遠くから運ばれた硬玉は、まじないの力を増す貴石として珍重したであろう。

身に付けたことが予想できる。護符(ごふ)のように使用したのであろう。宮岡氷川神社前潰跡の土版は、人面をつけており、形も人の体形を残している。土偶の機能をあわせ持った土版である。
宮岡氷川神社前遺跡から、護符様土版(ごふようどばん)と呼んだ土製品が出土している。報告者である吉川國男は土製品と額の湾曲が一致するところから、紐を通して額に当て、頭の後ろで結んだものと推察した(吉川國男他「宮岡氷川神社前逍跡発掘調査報告」『北本市文化財調査報告書第ー集』ー九七二)。一種のヘアバンドである。この他大宮台地では、大宮市の東北原遺跡(ひがしきたはらいせき)から晩期のヘアピンが出土している。これらの装身具は単に身を飾るのではなく、身につけることによって祈る力や身を守る力を強くしたりするまじない性が強いものであった。
家の中や屋外に据(す)えて使用したまじないの道具はたくさん見つかっている。土製品では土偶(どぐう)、土版、手捏(てづく)ね土器があり、石製品では石棒、石剣、独鈷石(どっこいし)、玉斧(ぎょくふ)は、いずれも中期から晩期の所産(しょさん)である。土偶は乳房や妊娠状態を表しており、ほんの二、三例を除くと他はすべて女性を形どっている。九州では草創期(そうそうき)に扁平な小石に髪や乳房や腰蓑(こしみの)をほそい線刻で表した石偶(せきぐう)があるが、大宮台地では早期の土偶から始まる。大宮市に早期の例、浦和市に前期と中期の例が各一点ある。早期から中期前半までは薄い板状で、中期中葉から立体的になる。後期後半から出土例が増え、晩期には木兎形(みみずくがた)とよぶ特徴的な土偶となる。市域でも高尾の宮岡氷川神社前遺跡から木兎形土偶の顔面部の破片が採集されている。土偶の基本は収穫や多産を願ったものである。出土例のほとんどが破損しているところから、壊すことが目的であったとも推察されている。中期に立体化すると、粘土の塊から土偶全体を造るのではなく、頭・手・胴体・足をそれぞれ別の粘土の塊としてつなぐという、壊し易い製作技法を採用している土偶も現れる。インドネシアを中心に、殺害した女神の五体を別々に埋葬し、五体のそれぞれからいままで知られていなかったイモなど食物が生まれたという食物神話である「ハイヌウェレ神話」が分布している。土偶も同様に、壊すという行為を殺害であると解す説が強くなっている。が、この神話は栽培民の神話であり、縄文人は採集民である。殺害という形は同じでもまだ、ストレートに食物神話と直結するわけにはいくまい。土版のなかには厚くて大きく、穴もなく、身につけるには不適当なタイプがある。そうしたタイプはどこかに据えて祈りの道具として使用されたのである。ミニチュア土器が中期中葉から出土するようになる。中期には作りは精巧で、日常使う土器と同等の文様を施している。晩期になると有文と無文の二種類が出土する。これらは実用品ではなく、まじないの道具である。神に供える道具であろう。石棒は、棒状をした磨製もしくは敲打製石器(こうだせいせっき)である。中期から晩期まで使用している。中期は大型が多く、ニメートルを超える大型品がある。後期中葉まではーメートル前後の大型が続き、後期後葉から三〇センチメートル前後の小型になる。特殊な例では、晩期に五センチメートの小型品がある。頭部が膨(ふく)らんでおり、男根を表現したものである。土偶と対をなして、豊穣(ほうじょう)を祈って使用したものである。宮岡氷川神社前遺跡から石棒頭部の破片が出土している。
石剣は、後期以降、石棒から変形・発達したものである。柄が表現され、柄の末端が膨らみ、身部の断面を凸レンズ状にして両側縁に刃を作り、先端を尖(とが)らしている。用途は不明であるが、晩期中葉には石棒が石剣と紛(まぎ)らわしい形となることからみて、石棒の機能も合わせて使用したのであろう。宮岡氷川神社前遣跡から石棒の頭部と石剣の身部の破片が出土している。玉斧は硬玉を使った磨製石斧である。宮岡氷川神社前遣跡では、このミニチュアの玉斧が出土している。やはりまじないの道具であろう。
大宮台地の各遺跡からはこの他に独鈷(どっこ)石や石冠(せきかん)、石冠状土製品など用途不明の遺物や土笛を兼ねた亀形土製品などがある。まじないの道具の材質は土製・石製・骨角製(こっかくせい)・木製・貝製と身近な材料をすべて使用している。こうしたまじないの道具は晩期に特に多くなる。晩期には縄文社会が行き詰まり、社会的な不安を払拭(ふっしょく)するためにまじないの品々が多く作られたとの説がある。しかし、まじないの道具の種類が多様になったのは、目的によって新たな道具を生み出してきた数千年にわたる蓄積の結果、目的によって使いわけるようになったのであって、縄文時代の最後に縄文的まじないが完成したのである。もちろん西方からは本格的な稲作文化の波がヒタヒタと押し寄せて来ており、西日本では弥生文化に縄文文化が駆逐(くちく)されていったが、関東地方では縄文文化と対立するものではなく、すでに波状的に伝わってきていた好ましい波であったろう。

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