北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第8節 縄文人の一生

下石戸下の台原Ⅲ遺跡の再葬墓

写真14 台原Ⅲ遺跡の再葬墓

図21 台原Ⅲ遺跡の再葬墓出土の土器

一度埋葬した人骨を掘り起こし、骨だけ甕(かめ)に入れ、再度埋葬することを再葬墓(さいそうぼ)と言う。骨を洗う作業が必ず伴うことから、洗骨葬(せんこつそう)とも言う。所沢市坂東山遺跡(ばんどうやまいせき)からは甕の内の人骨がそっくり残ったまま出土した。台原Ⅲ遺跡では、後期初頭の称名寺式(しょうみょうじしき)の甕形土器(けめがたどき)が浅いピッ卜の中に入っていた。土器はつぶれていたし、内にも何も残っていなかったが、これは再葬墓として埋められた甕である。中期の加曽利(かそり)EⅡ式期から後期前葉の堀之内I式期にはこうした単独出土の甕が多く見つかっており、再葬墓の盛んな時期だったことがわかる。
再葬墓は昭和四十年代までは沖永良部島(おきのえらぶじま)などで実施されていた葬法である。遠く南方につながる葬法であり、南西諸島では厨子瓶(ずしがめ)という二次埋葬専用の瓶を焼き、その中へ骨を洗って入れ、一次埋葬したところとは異なった所へ埋納し、おまいりは厨子瓶のある所へするのである。埋める墓とおまいりする墓と二か所あるので<両墓制>ともいう。両墓制は昭和三十年代の浦和市にも報告があり、市域では常光別所(現在の朝日)に両墓制がある。常光別所の両墓制は生まれてくる要因が少しく異なっており、直系の系譜上に辿れるものではないが、間接的には関連しており、縄文時代に南方から伝わった葬法の流れの上にある。

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