北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第9節 四季の沿った生活のリズム

稲作リズムの複合へ
縄文人の生活リズムは、中期ごろから徐々にイモ栽培や雑穀栽培が一部で始まり変化していく。晩期の末には米作りも始まったこともわかってきた。本格的な稲作社会の到来は、弥生時代にならなければ始まらないが、縄文人の生活リズムの上に弥生時代の米作りを主体とした生活リズムが複合するのである。稲作は一年を通して作業していかなければならない。籾蒔(もみまき)や田の草取り、虫追いや刈り取りなどがメインの作業となり、その合間に縄文時代以来の四季を追った作業がなされるようになるのである。年中行事や信仰の面でも水稲耕作に伴う行事がメインとなり、縄文時代以来の信仰はサプになっていった。新たに複合した文化は表面に出、旧文化は内にかくれる。縄文人の生活リズムは生活の表面から徐々に消えていくが、基層文化として根強く生き続けて行くのである。私たちが守っている年中行事などの事象を細かに分析していくと、古い形態を明らかにすることができることもある。
市域で、中秋の名月に「ヤツガシラ」を供える農家がある。サトイモを追求した研究によると、地方によっては<イモ名月>の言葉もある。お正月に必ずヤツガシラを煮たり、雑煮(ぞうに)に必ずサトイモを入れる地方がある。またモチを主体に上にイモをのせて食べる地方、逆にイモを主体に上にモチをのせて食べる地方、そればかりではなく、お正月にモチを食べずにサトイモを食べるところがあったりする。これは稲作以前に、イモ栽培の段階を想定することによってはじめて理解できることで、かって「イモ正月」があり、後に「モチ正月」に変化したものであることを明らかにした。イモは縄文時代のイモ栽培の名残りという説がある。
その後も、様々な文化が複合する度に、縄文時代の息吹(いぶき)は深く深く沈潜(ちんせん)していくが、深層の部分で、縄文時代は今も息づいているのである。

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