北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第3節 大宮台地に到来した弥生文化

谷津田か否か
池上・小敷田遺跡で行なわれていた米作りは、多くの要件が揃(そろ)った本格的なものであったが、この型式の土器をもつムラは、利根川中流域の低地に分布し、市域を含む大宮台地北部では、今までのところ見つかっていない。

写真17 弥生の米 熊谷市池上遺跡(埼玉県立さきたま資料館所蔵)

米には、大きくジャポニカとインディカの2種類がある。この炭化米はジャポニカ。

一方、弥生時代中期の後半になると、宮の台式土器が東京都から神奈川県にかけて広く分布し、大宮台地の南部もその分布圏に含まれるようになる。宮の台期のムラは、樹枝状に入り組んだ台地の先端部に立地していることが多く、このことから一般には谷津田を営んでいたといわれる。谷津田とは、谷津の泥深い湿地を耕作地として利用するもので、谷からの湧水(ゆうすい)が豊富で灌漑(かんがい)の必要が無く、おもに排水調節だけで米作りが行える利点がある一方、可耕地が限定され生産性にやや乏(とぼ)しいという欠点がある。確かに大宮台地のあちらこちらでは、摘(つ)み田(た)と呼ぶ直播(じかまき)の農業がつい最近まで行なわれていた。ところがよくみると宮の台期のムラは台地端に沿うように分布し、台地を開析(かいせき)する小河川の谷頭にまではなかなか侵入してゆかない。このことは、当時の耕作地の中心が谷津そのものよりも台地の前に広がる低湿地や河川の後背湿地(こうはいしっち)にあったのではないかとも思わせる。さらには台地上で畑作を行っていたことも想定する必要があるだろう。
宮の台式土器を使用していたムラの分布の北限は、大宮台地では大宮市と岩槻市を結ぶラインまで確かめられていて、市内からはまだ見つかっていない。
一方、吹上町の袋(ふくろ)・台(だい)遺跡では、中部高地や北関東地方と関わりの深い土器が出土している。また、はっきりとした内容は分かっていないが、池上・小敷田遺跡群の土器に後続する土器も存在するはずである。このように大宮台地の北部から利根川南岸の低地にかけては、土器の分布の狭間(はざま)にあたり、かなり錯綜(さくそう)した様子が窺(うかが)える。いずれ荒川流域の大宮台地北部でこの時期のムラが発見される日もそう遠くないに違いないし、土器の違いと生業との関わりもしだいに明らかになってゆくだろう。

図30 大宮台地の弥生時代中期の主な遺跡(宮の台期)

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