北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第4節 ムラの姿と生活

食糧と炊飯
池上(いけがみ)・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)の住居跡からは多量の炭化した米が出土しているように、確かに弥生人たちは米を食べていた。しかし、彼らの食事の中で米がどの程度の割合を占めていたのかについては、実のところはっきりはわかっていない。各地の遺跡から出土する種子を分析すると、米以外にムギ、ヒエ、アワ、ソバ、ダイズ、アズキなど実にさまざまな穀類が見つかる。これらは栽培種だから水田以外に畑作も盛んに行われていたことは確かだ。意外にも弥生人たちは雑食なのである。しかし、だからといってすぐに弥生時代は米の収穫だけで食糧をまかない切れなかったと決めつけることはできない。第一節で述べたように、彼らは最初から畑作を含めた多様な農耕形態をそっくり受け継いでいたのだと考えた方が良さそうである。もちろん、食糧生産以外に縄文時代以来の狩猟や採集も続けられていた。弥生時代の銅鐸(どうたく)には、鹿を狩る男たちが描かれ、弥生時代の貝塚も少ないながらも各地で見つかっている。八重塚のムラの人々も、ムラの周囲に広がる森で木の実を拾い集め、鹿を追い、目の前を流れる旧入間川で盛んに魚などを捕まえていたに違いない。
食糧はどのように調理されたのであろうか。煮炊き用の甕(かめ)の外側にススが付着しているものが多く、米と水を入れて炊(た)いて食べていたらしい。実際に甕を使って行った実験では、一時間から一時間半ぐらいで大変美味(おい)しく炊けたそうである。もちろん、他の雑穀類を混ぜて粥(かゆ)や雑炊(ぞうすい)を作って食べてもいただろうし、餅や団子も作ったに違いない。ところで、米は炊きすぎると焦げて甕の内側にこびりついてしまう。ムラから出土する甕の中に焦げついた米やヒエ、アワなどが付着していることがたまにある。弥生人の中にも慌(あわ)てものがいたのだ。
現在と同じような、米を蒸(む)す器の底に孔(あな)のあいた甑(こしき)が弥生時代にもなかったわけではない。しかし、甑は一つのムラから一つしか出土せず家の中でも特別に扱われていた。だから、たとえばお祭りなどの大切な行事の時だけに、お供えをしたりするために特別に甑で米を蒸して強飯(こわいい)を作ったのであろうと考える研究者もいる(甑形土器に関する一考察ー柿沼幹夫(かきぬまみきお))。

図33 炊飯の方法

蓋を乗せたかどうかは意見の別れるところ。蓋の実例は少ない。

図34 コシキの形

使わないときには、台の上に乗せて、特別丁寧に扱われた。

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