北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第4節 ムラの姿と生活

生活と道具

図35 弥生の道具

私たちの身の回りを見渡してみよう。実にさまざまな用途に応じた道具がある。最初は簡単に石を打ち欠いただけの道具から用途に応じて機能分化していった道具たち。道具の分化は文明のバロメーターでもある。弥生時代にもさまざまな道具があった。鍋や釜そして食器にあたるのが土器である。煮炊きや水を汲(く)み置きする甕、食料の貯蔵用の壺、食事を盛りつける高坏(たかつき)、しゃもじや発火具、農具や日用品の多くは木器であったはずだが、残念ながら今日に残らないことが多い。織物を織るために糸を紡(つむ)ぐ紡錘車(ぼうすいしゃ)は池上(いけがみ)・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)などで見つかっている。
ところで、土器づくりは女性の仕事だったとする説がある。世界の民俗例でみると、八割以上が土器づくりは女性の仕事だった。狩りは男の仕事、土器づくりは女の仕事。男女の仕事の分担がはっきり分かれていたようだ。
包丁、カンナ、ノミ、ナイフなど、調理具や工具にあたるのが石器である。弥生時代には、農具を製作するエ具として大陸系磨製石器が伝わった。池上・小敷田遺跡群では、身の厚い両刃の磨製石器と片刃の小さな磨製石器がいくつか出土している。これが伐採用の斧と加工用のノミだ。これで、木を切り倒し、鋤(すき)や鍬(くわ)などの木製農具を作った。ところが、関東地方の弥生時代のムラからは磨製石包丁があまり発見されない。この遺跡では、ちょうど手の中に入るぐらいの大きさの薄い石の周囲を打ち欠いた打製石器が出土しており、どうもこの石器が磨製石包丁の代りらしい。関東地方のムラムラでは、ムラの近くで手に入れることのできる石を石材として使用していることから、基本的には自給自足だったようである。
さて、同じ弥生時代の遺跡でも市内の八重塚遺跡(やえづかいせき)A区(原始P四四七)や榎戸(えのきど)Ⅱ遺跡(原始P五四九)では、土器がたくさんみつかっているのに石器が一つも出土していない。なぜか。鉄の道具が普及したからだ。鉄は石よりも利器として優れている。だから、弥生人たちはいっせいに石器を捨ててしまった。関東地方では、弥生時代中期から後期へ移り変るころに石器から鉄器への交替が急速に行われた。鉄がどのように普及していったかということについて、本当のところは良くわかっていないが、大事なことは鉄という当時の新製品が広い範囲に急速に普及してゆく、関東地方の弥生社会がそういう社会の仕組みであったということだ。

図36 靑銅のやじり 池上・小敷田遺跡群

実は、池上・小敷田遺跡群では青銅のやじりが一点発見されている。関東地方の一角では、生活の道具よりも武器のほうが先に金属器に代っていたのだ。

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