北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第5節 農耕社会の発達とク二づくり

厶ラの拡大

図37 ムラとムラのつながり

不思議な形をした飾りや勾玉。いくつかのムラから同じ形のものが出土している。

弥生時代後期の後半になると、発見される遺跡の数が急に 増えるようになる。このころのムラを良く見ると、規模が大きく比較的長期間に渡って存続したものと、規模が大きいのに短期間に廃村になってしまったもの、規模が小さく、短期間に廃村になってしまったものとがある。
厶ラが急速に増えてゆくのはなぜだろうか。食糧の確保が安定し収穫物が増加すれば人口が増える。人口が増えれば、いっそう収穫を増やさなければならない。新しい耕地を求めて、ムラから幾つかの家族が出て少し離れた場所に新しいムラを作るようになる。先に述べた八重塚(やえづか)のムラもその一つだったのであろう。もちろん、短期間に廃村になってしまったムラが多ければ、見かけでは遺跡の数が増えるので、遺跡の数がそのまま人口を反映しているわけではないのかもしれない。大宮台地の弥生時代後期の遺跡には、土器をほとんど出土しないムラがあり、比較的短期間にムラを移動している様子も窺(うかが)える。しかし、弥生時代後期における全国的な遣跡の増加の背景には、やはり人口の増加を無視することはできない。新しいムラと元のムラとは、耕作や生活の道具の入手に協力し、お祭りや葬儀などの作業は共同で行うような強い繋(つな)がりをもっていた。母村(ぼそん)と分村(ぶんそん)の関係、これが弥生時代後期の遣跡の拡大を物語っている。

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