北本市史 通史編 原始

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 原始

第3章 米作り、そして戦争の始まり

第1節 弥生時代の幕開け

捨てたもの/残したもの
弥生文化は北九州地方から広がり、やがて本州の北端まで伝えられた。東日本の縄文人は、米作りやそれに関わる技術体系を習得することで弥生人となった。しかし、古いものを全て捨てさり、新しいものを受け入れてしまったわけではない。ちょうど明治の文明開化によってあれほど多くの西洋の文物や思想が一度に日本に押し寄せてきても、家の中で靴(くつ)を脱ぎ、お箸(はし)で食事をする習慣が無くならなかったように。
一つの例を挙げる。考古学研究者が宮の台式土器と呼ぶ土器は、東海地方の櫛描文(くしがきもん)の影響を受けて成立した南関東地方に分布する土器である。この土器が、それ以前の土器と異なる主な特徴は、鉢形(はちがた)の甕(かめ)をもつこと、土器を作る時に内外面を木の板の小口で擦(こする)る刷毛目(はけめ)と呼ぶ整形を行うこと、土器の表面に櫛描文と呼ぶ文様を描くことなどである。この三点はいずれも弥生土器に共通する代表的な特徴と言ってよい。しかし宮の台式土器は、どういうわけか時期が新しくなるにつれて、しだいに櫛描文を失い伝統的な縄目文の装飾に戻ってしまう。ところが一方で鉢形の甕や刷毛目整形の手法などは、きちんと受け継がれてゆく。捨てたものと残したもの。新しい技術や文化と伝統的な文化との交錯(こうさく)と相克(そうこく)、それが東日本の弥生文化の特徴でもあるのだ。

<< 前のページに戻る