北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第6節 祭と墓

四角の溝で囲まれた墓

写真19 再葬墓 熊谷市横間栗遺跡(熊谷市教育委員会提供)

1つの穴の中に洗骨された遺骨を入れたいくつかの土器が入れられる。

弥生中期の中ごろ、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ぶ墓壙(ぼこう)の周囲を四角の溝で囲む墓が西日本から広がり、再葬墓にとって変わった。注意深く観察すると溝の中にも埋葬が行われたことがわかる。再葬墓では、ムラの人々が等しく同じように埋葬されたらしいが、この墓制では、中心に埋葬された人、周囲の溝に埋葬された人、方形周溝墓には埋葬されない人というように、人によって埋葬場所が区別されるようになった。埋葬方法が区別されるということは、同じムラの中の人々に生前の生活において何等かの格差が生じていたことを示している。そして、その格差を埋葬によって表現する意識が芽ばえてきた証拠でもある。
関東地方でもっとも古い方形周溝墓の一つに、先にあげた池上(いけがみ)・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)のものがある。方形周溝墓には、北陸地方から運ばれてきた土器が納められていて、この方形周溝墓が伝えられた道筋を暗示している。この遺跡では別に土壙墓(どこうぼ)も見つかっていて、方形周溝墓の導入時期の様子を示すものとして興味深い。大宮台地の北部では、鴻巣市の登戸新田遺跡(のぼりとしんでんいせき)や桶川市の砂ケ谷戸(いさげいと)Ⅱ遺跡で方形周溝墓が発見されている。方形周溝墓は、住んでいるムラの近くに造られるのが普通であるから、八重塚遺跡(原始P四四七)や榎戸Ⅱ遺跡(原始P五四九)の周辺で今後発見されることであろう。

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