北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第6節 祭と墓

墓のマツリ

写真20 方形周溝墓出土の腕輪 東松山市観音寺遺跡

(東松山市教育委員会提供)

写真21 関東地方最古の方形周溝墓 熊谷市小敷田遺跡(埼玉県立埋蔵文化財センター提供)

3基が溝を接するように並んで造られている。

葬送の方法で、当時の人々が死というものや死者をどのように考えていたのかを窺(うかが)い知ることができる。方形周溝墓の溝の中からは、しばしば土器が出土する。これらは一般に供献土器(きょうけんどき)の名で呼ばれているが、お供えをした土器というよりも葬送儀礼に使われた土器を廃棄したと考えたほうが良い。死者を偲(しの)び、送るマツリが墓の前で行われ、その時に使用された土器がけがれを払うために廃棄されたのだ。『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の中に、死者を送る際に墓前で歌舞飲食が行われたことが記されており、これらの土器は、墓の前で行われたマツリの様子を彷彿(ほうふつ)とさせてくれる。ところで、墓のマツリは死者を偲ぶためだけのものではない。マツリを執(と)り行う人々があとに残された人たちである以上、儀式は彼ら自身にとって現世的な意味があったはずである。マツリの意味が政治的な理由をもってくる時、墓は政治のモニュメントとなり、墓のマツリも政治的なセレモニーへと変わるのである。

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