北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第7節 古墳時代にむけて

目まぐるしく移動する土器

図43 新しい形の土器

1.八重塚遺跡A区1号住 2.八重塚遺跡A区3号住 3~5.石戸城跡1号住 東海地方や北陸地方に源流がある。

縄文時代でも古墳時代でも、他の地域で作られた土器が運び込まれ、運び出されることはある。しかし、弥生時代の終りごろは、やきものが商業ベースにのる以前では、もっとも激しく頻繁(ひんぱん)に土器が移動した時期である。大宮台地のムラムラでも、他の地域の土器が運び込まれてくるだけではなく、他の地域の土器を模倣(もほう)した土器もたくさん作られるようになった。しかも数の上からみれば模倣土器の方が圧倒的に多い。どうしてこのような現象がおこってくるのであろうか。搬入土器や模倣土器をみると、もちろん、壺(つぼ)や甕(かめ)もあるが、器台(きだい)や高坏(たかつき)、瓢形(ひさごがた)の小さな壺など、どちらかといえばそれまで大宮台地のムラムラでは使用されていなかった新しい形の器が多くしかもマツリに深く関わる器種である。そしてこの新しい器種の多くは、東海地方や畿内(きない)地方が故郷なのである。このことは、この地域のムラに東海地方や畿内地方で行われていた新しい形のマツリが広まってきたことを示している。
新しい器種が増えるにつれて、逆に伝統的な文様や形は失われていった。こうした土器の変化は、単に形や文様などの表面的なことにとどまらない。丁寧(ていねい)に土器を作り文様を描くことよりも、どれだけ早く、多く、同じ形に作ることができるか。土器に対する弥生人たちの意識が大きく変ったのである。

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