北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第2節 弥生文化の成立と波及

ノッポの弥生人

写真15 弥生のフロンティア 熊谷市池上遺跡(埼玉県立さきたま資料館所蔵)

ここでひとつ東国の弥生人の顔を紹介する。濃いヒゲと太い眉、この精悍(せいかん)な男性の顔は、弥生のフロンティアであろうか。

さて、そうすると弥生人は、縄文人と全く異なった人々なのであろうか。これについては、人間の骨格を比較して調べる形質人類学(けいしつじんるいがく)の立場から興味深い仮説が出されている。西日本の弥生人と縄文人の発掘された人骨を比較してみると次のようになっていた。縄文人に比べ弥生人は、高顔(こうがん)(顔が上下に長い)で身長も平均三センチほど高い。しかし古墳時代人になるとその中間ぐらいになる。そこで、弥生の初期には、半島から多くの渡来人が移住してきて、縄文人と混血して弥生人となった。ところが、東日本では、縄文人から古墳時代人まで形質に著しい差は認められない。だから、半島と遠く離れた東日本では、間接的に西日本の弥生人から稲作を伝えられ、縄文人がそのまま弥生人になっていった、というものである。西日本では縄文人の形質を変化させるほどの膨大な数の渡来人との混血によって、現代人の原型となる弥生人が生れたのである。と同時にこのことは米作りの伝播(でんぱ)が比較的平和のうちに進められたことをも暗示している。

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