北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第3節 大宮台地に到来した弥生文化

北本市内で前期の遺跡が見つからない

図26 川口市猿貝北遺跡の土器

(『猿見北・新町』より作成)

千葉県の荒海貝塚の段階を弥生時代とすると、大宮台地の同じころの遺跡である川口市の猿貝北遺跡や浦和市の白旗本宿遺跡(しらはたほんじゅくいせき)なども弥生時代ということになる。しかし、県内では全体として遺跡の数が少なく、市内でもこのころの遺跡はまだ発見されていない。もしかするとそのころの市域には人々が生活していなかったのてあろうか。もう少し考えてみよう。市域の中心が乗る台地は現在のJR高崎線沿いから東に向かって緩(ゆる)やかに傾斜し、やがて沖積下(ちゅうせきか)に埋没して、台地と低地の比高差はわずかしかない。しかし、当時が今日と変らない地形だったわけではない。自然資料編Pーーでも詳しく述べられているように、市域の地形は小河川による台地の開析と関東造盆地運動による地盤沈下によって沈んだ台地の上に沖積層が厚く堆積し、当時の台地斜面を地中深く閉じ込めているのである。
隣接する桶川市や鴻巣市では、赤堀川沿いの、現在は埋没している台地上から縄文時代後期や晩期の遺跡が発見されているし、川口市の猿貝北遺跡の土器も開析(かいせき)谷間の沖積低地から発見されている。最近、国道十七号バイパスの建設に伴う発掘調査によって、熊谷市や深谷市などの利根川に面した低地から、縄文時代晚期から弥生時代中期の遺跡が数多く発見されるようになって、当時は現在よりもかなり低地面に生活していたことが分かってきた。このように考えると、今後の低地の発掘調査の進展によっては市内からも当時のムラが発見される可能性は十分にある。

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