北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第3節 大宮台地に到来した弥生文化

初期の弥生土器
荒海貝塚や猿貝北遺跡の土器は、口縁部に平行する沈線が描かれた浅鉢(あさばち)や深鉢が主体で、大型壺はまだ成立していないようである。これらの土器は荒海式土器と呼ばれているが、その分布域は、あまり広くなく南関東地方から東関東地方にかけての地域に限られている。一方、北関東から中部・北陸地方にかけては浮線文系土器が、南東北地方以北では大洞系土器(おおぼらけいどき)が広がり、その分布が重なる県内では、各々の土器が少しずつ発見されている。市内から、今後どの系統の土器が発見されるのか興味深い。

図27 岡部町四十坂遺跡の土器

(『埼玉土器集成4』より作成)

ところで、弥生土器の大きな特徴として、穀類貯蔵用の大型壺と高坏(たかつき)の成立があげられる。初期の弥生土器である岡部町四十坂遺跡(しじゅうざかいせき)出土の土器の組み合わせをみると、東海地方西部地域の土器の影響を受けた大型壺に、在地の伝統を引く甕(かめ)や小型の鉢が伴っている。この組み合わせは群馬県や長野県などから見つかる土器群でも同じである。関東地方の初期の弥生人たちは、伝統的な縄文時代の系譜を引く甕や鉢に外来の壺を模倣(もほう)した壺を組み合わせることで弥生土器を成立させたのである。

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