北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第4節 農民と耳飾り ー群衆墳の時代ー

北本市の群集墳
市内では古墳は荒川(旧入間川)左岸沿いの、大宮台地でも最も標高の高い地域に集中している。北から列挙すると、まず北袋古墳群I (原始P三〇二)が鴻巣との市境に近い荒井の北袋を中心に分布している。昭和四十四年(ー九六九)の段階では前方後円墳一基と円墳三基が確認されていたが、その後の土取り工事によって消滅してしまった。しかし、最近の調査では帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)の可能性のある一基が民家の裏山に現存しており、周囲から埴輪片(はにわへん)が採集されている。古墳の規模は全長二十数メートル、高さニメートルほどである。また、石室の部材とみられる緑泥片岩(りょくでいへんがん)の板石が、祠(ほこら)の土台や井戸の蓋石に転用されている例もあることから、かなり多くの古墳が破壊されていると見なければならない。便宜的に北袋古墳群H (原始P三一四)としたやや南側の地点にも小円墳が現存しており、付近から円筒埴輪片が採集されている。また、現在古墳は残されていないが、北袋M遺跡(原始P三一七)のように埴輪片が散布している地点もある。
北袋古墳群の南側約五〇〇メートルの地点には中井一号墳(原始P三二四)と二号墳(原始P三四ハ)がわずかな高まりとして残されている。このうち一号墳は発掘調査が実施されている。直径ニニメートルの円墳とされているが、周堀(しゅうぼり)の一部が切れてブリッジとなり、さらに外側に開く堀が造られているので、帆立貝式古墳となる可能性が高い。その場合の全長は三〇メートル前後となろう。内部主体は三味線胴形(しゃみせんどうがた)の胴張りの両袖型横穴式石室で、比企地方産の砂質凝灰岩(さしつぎょうかいがん)の切石が用いられていた。残念ながら盗掘されていて、副葬品(ふくそうひん)は直刀片(ちょくとうへん)二点が出土したに留まったが、外部施設として埴輪を備えており、後円部南側の墳丘裾部から人物を中心とする形象埴輪がまとまって出土している。これらは市の指定文化財ともなっており、葬送儀礼を考える上でも重要な資料なので、本章第五節で資料を紹介しながら詳しく述べることとしたい。

図56 中井1号墳全体測量図

墳形は帆立貝形となる可能性が高い。

図57 中井1号墳橫穴式石室実測図

玄室は胴張り方形で高句麗の影響を受けている。

中井古墳群のさらに南側約四〇〇メートルの地点に阿弥陀堂遺跡(あみだどういせき)があり、埴輪片と二次的に移動した比企地方産の砂質凝灰岩の石室部材の散布が確認されている。このことから阿弥陀堂周辺には複数の古墳の存在が推定できる。
さて、これまで述べてきた北袋・中井・阿弥陀堂の各古墳群は荒川沿いに延長約ーキロメートルの細長く、連続的な分布が認められるので、本来は一つの群集墳として把握できるものといえる。耕作や土取りのほか谷などに大規模な客土(きゃくど)を行うドロッケ農法などによって失われたり、確認の難しい古墳が多数あったと見られるので、もともとは一〇〇基前後の古墳から構成されていた可能性を考えてもよいだろう。総称として荒井古墳群ともいえるこの群集墳の形成時期は胴張(どうば)りのある横穴式石室の存在や埴輪の特徴から六世紀後葉にピークがあると見られる。しかし過去に北袋の畑地から採集された円筒埴輪にヨコハケを施すものがあるので、開始期は五世紀後半までさかのぼる可能性がある。谷を隔てて約四〇メートルの位置にある鴻巣市馬室(まむろ)埴輪窯跡ではその時期の円筒埴輪が出土しているので、供給関係を想定しても誤りないであろう。そうした場合、荒井古墳群は関東地方では最も古く成立した群集墳ということになる。
一方、荒井古墳群の南側には無古墳地帯を経てまた一つの古墳群が存在している。荒井の八重塚(やえづか)の旧農事試験場跡地には三基以上の円墳からなる八重塚古墳群(原始P四九四)がある。三基のうち現存しているのは二号墳のみで、直径二〇メートルを超えるやや大きめな円墳である。一号墳は昭和三十五年(ー九六〇)に石室が発掘調査され、三味線胴形(しゃみせんどうがた)の凝灰岩(ぎょうかいがん)切石積みの横穴式石室が検出された。副葬品(ふくそうひん)は刀子(とうす)しか残されていなかったが、石室の形態や、石材の加工法、埴輪を伴わない点などから七世紀前半の築造と見られる。八重塚古墳群と谷を隔てて約四〇〇メートル南には諏訪山南遺跡(原始P五〇二)があり、古墳の横穴式石室のみが遺存していた。砂質凝灰岩の切石積(きりいしづ)みで、側壁には緩やかな胴張りが認められる。副葬品として小型の長頸壺(ちょうけいつぼ)が一点出土している。自然釉(しぜんゆう)のかかるフラスコ型の壺であり、七世紀ごろの制作と見られる。このほか鉄釘が五九点出土しており、木棺が用いられていたことの明らかな古墳として注目される。諏訪山南遺跡の一号墳は八重塚古墳群に後続する時期の古墳であり、両者は一体的に捉えることが可能である。仮にこれらを石戸宿古墳群と呼ぶことにするが、その形成時期が七世紀であり、荒井古墳群とは時期が異なっている。しかし両者とも比企地方産の石材を横穴式石室に利用していることや、その形態に胴張りが認められることは共通点として注意する必要がある。恐らく荒井古墳群の形成が五世紀後半に開始され六世紀代で終焉(しゅうえん)を迎えた後に、その子孫たちは新たな墓域を石戸宿周辺に求めたのではないだろうか、こう見た場合、市域の荒川左岸沿いの群集墳は一つの大きな共同体が実に二〇〇年の間連綿(れんめん)として築造し続けたものということになる。

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