北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第6節 三つの川に育まれた農耕と集落

荒川流域

図61 八重塚遺跡B区3号住居跡実測図

4本の柱に支えられた方形の建物で、床面積は約30㎡。中央に炉、北東側に力マドを設ける。

農耕を育んだのは三つの川であった。市域には西側を画し南流する荒川(旧入間川)、東側を画し南東流する元荒川のー支流である赤堀川、そして市域の中央部を南流する江川の三つの河川の流域に古墳時代の集落の分布が認められる。逆に河川流域でない部分は全く遺跡の分布がなく、截然(さいぜん)と三つの流れに沿って人々の営みが確認されるのである。このうち荒川沿いの地域は大宮台地でも最も標高の高い地域であり、河川との比高差が大きいため、洪水の危険が少なく最も定住に適した地域といえる。このため市域では最も多くの集落遺跡が営まれ、しかも継続性が認められる。古墳を産み出したのは現状ではこの地域に限定されているようである。本編第三章で活き活きと描かれた八重塚(やえづか)の村では、弥生時代終末ごろの入植後も安定した農業生産を基盤として集落が継続的に営まれている。八重塚遣跡(原始P四四七)B区には古墳時代前期にあたる五領式土器(ごりょうしきどき)を出土する三軒の住居の跡と、それに引き続き古墳時代中期の和泉式土器を出土する一軒の住居の跡が発見されている。集落の全容が発掘調査によって解明されたわけではないが、住居跡の分布がまばらなことから、あまり大規模な集落に発展したとは見られない。しかし、少なくとも二世紀以上にわたって継続し続けたことは注目に値する。特にB区三号住居跡では四本主柱を持つ平面正方形プランの整った住居が築かれていた。その中央部には炉があり、北東側の壁際にはカマドが採用され、従来の炉だけの住居に対して大幅な改善が図られている。カマドの登場はそれまで暖房と煮炊(にた)きを兼用していた火の機能分化を意味しており、貯蔵穴と一体的に厨房(ちゅうぼう)空間が固定化したことを物語っている。カマドは日本列島では五世紀ごろに朝鮮半島から一斉に波及したものと見られ、今まで、県内では本庄市西富田遺跡や東五十子遺跡(ひがしいかつこいせき)など児玉地方での受容が最も古いと考えられてきたが、桶川市高井北遺跡九号住居跡とともに八重塚遺跡B区三号住居跡は大宮台地上でもほぼ同時期にカマドが波及したことを示すものであり、その先進性が注目される。このこととともに注意されるのは住居内からの滑石製模造品(かつせきせいもぞうひん)の出土である。八重塚遺跡B区三号住居跡からは剣形品および臼玉がカマド付近から出土しており、カマド神を祀る戸内祭祀が行われていたと見られる。滑石製模造品は鏡、剣、玉の形代(かたしろ)であり、三種の神器を祀る大和王権と関わりの深い祭祀具である。近隣では桶川市高井遺跡第一号および二号住居跡からも模造品が出土しており、特に二号住居跡からは人物が馬に乗っている様を線刻したものが出土している。五世紀後半代に新たな大陸文化が大宮台地にいち早く及んでいたことは従来の県北地域から新たな文化が流入したという考え方の変更を迫るものである。

図62 古墳と集落の立地(●古墳○集落)

荒川・江川・赤堀川の3河川が農耕文化の母なる川であった。

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