北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第6節 三つの川に育まれた農耕と集落

江川流域
江川は源を鴻巣市原馬室に発し、市域の中央部を南流し、桶川市樋詰(ひのつめ)で荒川に合流する延長九キロメートルの小河川であるが、大宮台地に源流を持つ河川として極めて重要な位置を占めている。現在は市域では勝林排水路として変容し、流域を埋め立てて公団の北本団地が建つなど大きく変貌(へんぼう)を遂げているが、桶川市域ではその原状を良く留めており、幅二〇〇〜五〇〇メートルの谷を形成し、東西にハツ手状の支流が分かれ、樹枝状谷が発達している。今のところ市内では遺跡の発見数は少ないが、北本団地東南側に隣接する榎戸(えのきど)Ⅱ遺跡(原始P五四九)からは弥生時代中期の宮の台式土器(西暦一世紀ごろ)が出土しており、市内ではもとより大宮台地でも初期の農耕集落が出現していた可能性が強い。これに後続する弥生町式土器(やよいちょうしきどき)も少し上流の東谷足(ひがしやだり)Ⅱ遺跡(原始P五三七)から出土している。明確な集落遺跡では榎戸Ⅱ遺跡から弥生時代終末の前野町式 (まえのまちしき)もしくは古墳時代初頭の五領式期(ごりょうしきき)の住居跡が二軒発見されている。このように市域では江川流域の開発が最も早く、湧泉(ゆうせん)を中心とする制御の容易な小河川が初期の段階では農耕に適していたことがうかがわれる。しかし、奈良時代にいたるまでの集落が今のところ未発見であり、農耕の中心地は下流域に移動した可能性がある。桶川市域では前述のように江川の樹枝状谷が最も発達し、それを望む台地上には多数の古墳時代集落が密集している。たとえば楽上遺跡(らくじょういせき)は前野町から五領期の集落遺跡で、約ー〇〇軒からなる大集落と推定されているし、対岸の上尾市尾山台遺跡も同時期の大集落であり、江川流域の低地と深沼を農耕基盤として多数の人口が支えられていたことを知ることができるのである。楽上遺跡に隣接する砂ケ谷戸(いさげいと)Ⅱ遺跡(いせき)では弥生時代後期の溝を四角に巡らす墓(方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ))も発見されているので、安定した生活が営まれていたことをうかがわせるが、近畿地方の土器(庄内式)や比企地方の土器(吉ケ谷式(よしがやつしき))が出土していることは、外来の文化や人々の往来を通してムラムラが成長していったことを物語るものであろう。埼玉県でも初期の高塚古墳である熊野神社古墳を産み出したのはこうした江川流域のムラムラの連合体であったと考えられる。続く五世紀代の集落も高井遺跡、高井北遺跡、宮遺跡など江川の左岸に濃密に分布しており、六〜七世紀代には、しろはた山古墳群が出現している。このような状況から、江川は弥生時代中期以降の農耕の蓄積の上に、最も早く有力な首長を登場させた、県内では有数の文化の母なる川であったといっても過言ではない。

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