北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第7節 日々のくらしと習俗

食生活と厨房の道具
水田耕作地域では米を、また陸田耕作地域では粟(あわ)や稗(ひえ)を主食としていたが、その調理法は今日とは少し違っていた。上手遺跡(うわでいせき)(原始P五九八)のH二号およびH五号住居跡からは炉の付近から台の付いた甕(かめ)が出土しており、外面には煤(すす)が、内面にはオコゲ状の炭化物が付着していた。このことは米などを蒸して食べるのではなく、おかゆのように煮て食べたことを示している。台付甕の台は五徳(ごとく)の役割を果たしていた事になる。ところが、五世紀後半の八重塚遺跡(やえづかいせき)C区三号住居跡の場合、かまどが設けられ、甕をかけるための施設が整っているので、台の付かない甕が用いられている。このように、厨房(ちゅうぼう)の道具も時代とともに変化していくのである。
このほか住居内で用いられた容器類には、種籾(たねもみ)や食品、水などを貯蔵する目的で造られた胴の丸い壺や、食物をもるための皿にあたる坏(つき)、足の付いた高坏(たかつき)、ボウルにあたる鉢などがある。これらは素焼きの赤い焼き物で土師器(はじき)とよばれている。このほかに腐って残ることがまれな木製の容器やひょうたん、樹皮や蔓(つた)を使用した篭(かご)なども盛んに用いられていたにちがいない。今日のまな板にあたるものは今のところ発見されていないが、包丁は万能ナイフともいえる刀子(とうす)が用いられていたようである。箸(はし)は藤原京から発見されているものが我国では最も古く、七世紀後半に中国から新たにもたらされたものと見られるので、古墳時代には木製のサジが用いられていたと推定される。
副菜については、蛋白源(たんぱくげん)は猪や鹿、野うさぎや鳥などの狩猟と漁撈(ぎょろう)、それに豆類の栽培によっていた。青物は栽培種よりも山野草が主であったであろう。上手遺跡(うわでいせき)H三号住居跡からはかなり大型の桃の種が出土しており、果物の摂取(せっしゅ)も盛んであった。人間の生命維持に不可欠でありながら内陸部では産出しない塩については沿岸部に製塩を大規模に行った遺跡が明らかと
なっているので、広く交易れていたと見てよいだろう。
なお、近畿地方では古墳時代の後期から集落への須恵器(すえき)の供給が一般的となるが、関東地方では普及率が低く、土師器が一般的であった。須恵器は高温で焼き上げた緻密(ちみつ)な焼き物なので液体などの保存に適していたが、専用の大規模な窯と工人の確保が必要であったため、埼玉県の場合、南比企窯跡群や末野(すえの)窯跡群などが創業開始する奈良時代以前は庶民の器とならず、ごく一部の首長などの墳墓に副葬されるか葬送儀礼に用いられるかに限られ、宝器同然の扱いを受けていたのである。

図64 古墳時代の器(土師器と須恵器)(縮尺不同)

土師器は物を貯える壺、米を炊く甕、食物を盛る高坏と坏が基本セットである。5世紀に現れる須恵器は一般庶民への普及が遅れた。

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