北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第9節 古墳から伽藍へ

後期古墳に見られる仏教的色彩
古墳時代の終焉(しゅうえん)は文化の内的な変容と高塚式古墳の造営制限という政策の二面によってもたらされたといえる。古墳時代後期には朝鮮半島との交渉が盛んとなり様々な文物や習俗、信仰が怒涛(どとう)のように流入してくる。そのなかでも特に有力首長の古墳からは蓮華文(れんげもん)を描いた壁画や馬具、刀剣などが出土する場合があり、金属製の容器である銅鋺(どうわん)も仏器と関連すると見られている。行田市埼玉(さきたま)古墳群中の前方後円墳である将軍山古墳からは豊富な副葬品が出土しているが、そのなかに三点の銅鋺がある。二点は口径一五センチメートルほどのボウルであり、一点は底部に高台が付き、つまみ付きの蓋を伴っている。これらは佐波理合金(さはりごうきん)の鋳造品をロクロびきして整形したもので、金色(こんじき)の光を放っている。銅鋺の分布は関東地方に集中しており、近畿地方での出土例が極めて少ないことから国産品が配布されたものとは理解できず、半島で製作されたものがほとんどではないかと考えられる。用途については仏鉢などの仏器に起源を持つとの見方が強く、天武持統合葬陵(てんむじとうがっそうりょう)のようにこれを火葬骨の蔵骨器とする例もある。このことは本格的な仏教寺院が建立される以前であっても、新しい文化の摂取に意欲的な有力首長は仏教文化を自分の生活に取り入れていたと見ることができるのである。将軍山古墳の築造年代は六世紀後半の早い段階であり、わが国最古の飛鳥寺(あすかでら)の建立に先立つと見られている。

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