北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第9節 古墳から伽藍へ

古墳時代の終焉と律令官人制社会の到来
六世紀末の推古朝は古代国家の大変革期であった。聡明かつ人徳に富むことで多くの伝説と信仰を生むこととなった聖徳太子が摂政(せっしょう)として女帝を助けて数々の改革を断行したのである。十七条憲法は後の律令のように法令として完備したものではないが、「和をもって貴(たっとし)となす」という条文に代表されるように、大王をあらゆる面で補佐すべき豪族たちの内紛を戒め、政務に励むことを本旨としている。また、冠位十二階の制定は豪族たちの序列化を促進し、朝廷の意向の貫徹力(かんてつりょく)を増大させることをねらいとしていた。この点で推古朝(すいこちょう)の一連の改革は豪族の再編をめざしたものであり、大王の地位が相対的な優位から絶対的な優位へと押し上げられたのである。国造制の成立もこの時期と見る意見が有力であり、朝廷は畿内(きない)豪族ばかりでなく蝦夷(えみし)や一部の南島をのぞいた全国の間接的支配体制を固めつつあったといえよう。国家の存立基盤は権威、権力、強力の三本柱でありその裏付けは徴税権と徴兵権の行使であった。また、官僚制はそれを実体化するための手段であった。
このような大王を頂点とする新たな体制のもとでは、在地支配者である国造や県主(あがたぬし)などを介して租税の徴収がなされ、朝廷に貢進(こうしん)される必要があった。従来の屯倉(みやけ)や皇室直籍領からのみの税収では、朝廷はもはや成り立たなくなっていたのである。このような国家的な要請から見れば、莫大な財源と民を使役しての巨大前方後円墳の造営はまったくの再生産を伴わない消費でしかなく、もはや社会悪として排除されるべき悪風に堕(だ)していた。もともと薄葬(はくそう)は中国における厚葬の行き過ぎの結果、財政破綻(はたん)を来たしたため、皇帝自らがとった施策に起源があり、わが国の大化の薄葬令も条文自体の検討から見て隋の影響を受けたものとする田中久男の意見がある。前方後円墳の消滅は大化の薄葬令に半世紀ほどさかのぼる現象であるが、畿内と地方が時を同じくしており、大王陵の場合にも例外のないことから、朝廷が範をたれて徹底的な推進がなされたものと考えられる。このことから、条文は現存していなくても、前方後円墳築造に関するなんらかの禁令が布達されたのではないかとみられ、推古朝の薄葬令を復原する有力意見がある。

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