北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第2節 地域統率者の登場

熊野神社古墳と江川流域の古墳
荒川(旧入間川)の流域には主に弥生時代後期から人々が定住しはじめ、水稲耕作を開始し、次 第に耕作地を広げていった。市内では八重塚遺跡(やえづかいせき)(原始P四四七)や石戸城跡(原始P五一八)から古墳時代前期の数軒ないしー〇軒程度が寄り集まったムラの跡が発見されている。こうした小さなムラムラは、あるときは水争いや可耕地の争奪を行って対立したが、またあるときは共同して自然の脅威(きょうい)やより大きい村からの圧迫と戦った。村人たちは耕作にいそしみながらも、最低限の武力を保つことも怠らなかった。しかし、彼らが最も恐れたのは、豊饒(ほうじょう)の可否を決定する水の不足や洪水、伝染病の侵入であった。見えない敵に打ち勝つためには、人並みはずれた霊力を持ち、神をまつる方法と、悪霊(あくりょう)を払う呪術(じゅじゅつ)にたけたムラオサの存在が不可欠であった。
市域に近接する桶川市の熊野神社古墳は埼玉県指定史跡として有名な大型の円墳であるが、昭和三年(一九二八)に墳丘の上にある社殿を改築の際、粘土に覆(おお)われた木の柩(ひつぎ)の中から、多数の副葬品(ふくそうひん)が出土している。それらは、被葬者自身を飾った石のブレスレットや、めのう•ひすい•ガラスなどをもちいた首飾りが中心で、刀剣類はごくわずかてあった。しかし、大変注目されるのは、銅製と石製の二つの筒形品の出土である。これらは玉杖(ぎょくじょう)と呼ばれる杖の部品であり、玉杖は典型的な古墳時代前期の地域統率者(とうそつしゃ)の権威の象徴と考えられている。また、玉杖には自分の支配する領地を護る呪術的な力があると考えられていた形跡がある。このことから熊野神社古墳に葬られた人物は、どちらかというと武力よりも呪術によってムラを統率したシャーマン的な首長であったと見られる。熊野神社古墳のように古墳時代前期の四世紀まで遡(さかのぼ)る古墳で、近畿地方と共通する第一級の副葬品を伴うものは埼玉県内では極めて稀である。直径四五メートルの大規模な古墳をむらびとたちを使役(しえき)して築造しえたことから見ても、彼はいくつかのムラムラの連合体の統率者であった可能性は高い。荒川(旧入間川)沿いには、上尾市にある直径約三〇メートルの円墳の殿山古墳、同じくかつて二面の銅鏡が出土したことで知られている江川山古墳(いがやまこふん)などがあり、熊野神社古墳に続く五世紀前半代の地域統率者の墳墓であったと見られる。

写真24 桶川市熊野神社古墳の副葬品

(熊野神社蔵 埼玉県立博物館提供)

写真25 上尾市江川山古墳の銅鏡

(新藤慶四郎氏蔵『埼玉縣史』より転載)

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