北本市史 通史編 原始

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 原始

第4章 巨大な墓を競って造った時代

第2節 地域統率者の登場

独自の文化圏を形成した比企地方
市域の歴史的な位置付けを知る上では、埼玉県の他地方の古墳時代のあり方を知っておく必要がある。特に、五世紀後半以降、巨大な前方後円墳が連綿(れんめん)として築造され、県内では突出した大勢力を確立した埼玉古墳群の出現以前においては、比企地方と児玉地方の動向が重要である。
前章でふれたように、比企地方では、弥生時代後期には、中部山岳地方起源で、独自のスタイルを確立した岩鼻式土器(いわはなしきどき)と縄文を多用した吉ケ谷式土器(よしがやつしきどき)が広く用いられていた。このような同一型式の土器の分布範囲は、一定の政治的な文化圏を推定する上で有効な手がかりとなる。このことからみれば、比企地方は独自の文化圏と見られ、基本的に南関東地方の土器を用い、東海地方の影響を受けた土器も入り込んでいる荒川(旧入間川)流域とは異なっている。比企地方は県内でも古墳の出現が早い地域であるが、その周堀(しゅうぼり)の中から古墳に供献(きょうけん)された吉ケ谷式土器が出土する場合が多い。東松山市にある全長三五メートルの前方後円墳の根岸稲荷神社古墳や全長四六メートルの前方後方墳諏訪山二九号墳、吉見町にある全長六〇メ —トルの前方後方墳の山の根古墳などが眩当する。これらの古墳はいずれも古墳時代前期に遡(さかのぼ)る古墳であり、前方後方墳である点でも共通している。それぞれの古墳は一定の距離をおいて分布している一方で、弥生時代からの伝統的な土器を祭祀に用いていることから見れば、新来の勢力とは見がたく、伝統的な小地域ごとの首長が連合して政治的文化圏を形成していたのではないかと思われる。比企地方には諏訪山一号墳のように古墳時代前期末あるいは中期前半まで遡(さかのぼ)る可能性のある前方後円墳もないわけではないが、古墳出現期には共通して前方後方墳が小地域ごとに築かれ、傑出(けっしゅつ)した前方後円墳が登場しないことは、このような推測を助けるものと考えられる。

図46 東松山市諏訪山29号墳の測量図

埼玉県県史編さん室の調査で比企最古の前方後方墳であることが確められた。

図47 東松山市諏訪山29号墳出土土器

二重口縁壺などから4世紀中葉と考えられている。

比企地方では前方後円墳の出現は前方後方墳よりも遅れるが、確実にその規模を増大させている。諏訪山古墳群の一号墳は後円部が高く、前方部が低い立面的な特徴と、前方部の開きが小さく長いという平面的な特徴から少なくとも四世紀末か五世紀初頭の築造ではないかと推定される。都幾川(ときがわ)の対岸の台地の縁に築かれた全長ーー五メートルの大前方後円墳の野本将軍塚古墳はおそらく諏訪山一号墳に続く五世紀前半の築造ではないかと想像される。未発掘で年代を決めるのが困難ではあるが、立地や墳形に加え、埴輪(はにわ)を持たない可能性の強いことなどから古手の前方後円墳ではないかと考えられるのである。この古墳については逆に埴輪が立てられなくなってからの最も新しい前方後円墳ではないかとの意見もあるが、周堀(しゅうぼり)が明瞭(めいりょう)でない点なども加味して前述の時期の築造と仮定した場合、比企の小首長層を統合しうる有力な地域首長の出現をこの時期と見てよいものと考えうる。しかし、比企地方では、この後、六世紀後半までの長いあいだ、大型の前方後円墳が築造されない時代が続くのである。その理由は、埼玉古墳群の成立および展開と密接な関連が推定される。つまり、五世紀後半のある段階に稲荷山古墳が出現してから約ー〇〇年間、ー〇〇メートルを超えるような大型の前方後円墳が築造され続けたのと対照的に、比企地方から前方後円墳が消えるのは埼玉の大首長が周辺の小地域の首長たちの前方後円墳の築造を規制した可能性があるのである。このことについては、次節で詳しく述べるが、市域および周辺地域の首長たちも埼玉の大首長の政治的影響下に置かれたことが十分推測されるのである。

<< 前のページに戻る