北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第3節 埼玉古墳群の出現と新たな秩序

二世紀にわたって巨大古墳を築き続けた安定勢力

図50 行田市埼玉古墳群全体図

約30haの敷地に5世紀後半から7世紀前半に及ぶ代々の首長の墓が計画的に築造され続けた。

埼玉古墳群は行田市埼玉にある古墳時代中期から後期にわたる大型の古墳群である。立地は全くの平坦地であり、大宮台地の末端部に位置するが周囲の沖積地(ちゅうせきち)との比高差は小さい。埼玉古墳群の著しい特徴は、東西約四〇〇メートル、南北約八〇〇メ —トルの墓域内に前方後円墳八基、巨大円墳一基が密集して築かれていることにある。また、第二に前方後円墳の多くは二重の周堀(しゅうぼり)を備えており、その形態は長方形の特異なものであることが知られている。古墳群は大型の首長墓はほとんど現存しているが、削平されてしまった中小の円墳がこのほかに四〇基ほどあったことが航空写真などから知られている。
規模の上では大阪府の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)や百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)など巨大前方後円墳多数にひけをとるものの一定の墓域を限って、これほど首長墓が密集する例は全国的にまれである。関東では強いていえば、千葉県富津市(ふっつし)の内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)(前方後円墳ニニ基、大型方墳ーー基から成る)が比較対象となるが、谷津の存在など地形的制約から分布のあり方は散漫である。また、群馬県では太田古墳群、白石古墳群(しろいしこふんぐん)、保渡田古墳群(ほどたこふんぐん)、大室古墳群(おおむろこふんぐん)、倉賀野古墳群(くらがのこふんぐん)、総社古墳群(そうじゃこふんぐん)など大型古墳から成る著名な古墳群があるが、いずれも存続期間が短く、埼玉古墳群に対比できるものはない。このような埼玉古墳群の特異性はなにを示しているのだろうか、具体的に検討して見ることにしよう。
まず、埼玉古墳群の中で最古の古墳はどれか、このことは埼玉古墳群の成立時期を探ることと一致する問題である。かつて、丸墓山古墳(まるはかやまこふん)(直径ー〇五メ—トルの円墳)が最古の古墳と目されたことがあった。しかし、その後の発掘調査で、最古の古墳は五世紀後葉の稲荷山古墳であり、丸墓山古墳は六世紀前葉の築造とみられることが明らかとなった。主体部の内容が明らかなのは稲荷山古墳と将軍山古墳のみであるが、他の古墳も整備に伴う周堀(しゅうぼり)の発掘調査によって、須恵器や埴輪(はにわ)が出土しているので、埼玉古墳群を構成する首長墓のおおよその年代と序列を把握することが可能である。たとえば、武蔵最大の前方後円墳であるニ子山古墳(全長ー三五メートル)は六条突帯の大型円筒埴輪を持っており、突帯の作りが比較的丁寧であることや長方形の透し孔があることなどから、六世紀前葉の築造が推定される。また、造り出し付近から採集される須恵器はMT15型式に類似する特徴を持っている。
ところで、埼玉古墳群には一〇〇メートルを超える大型の前方後円墳と七〇メートル前後の小型の前方後円墳が混在しており、前者は最高首長の墓と見られるが、後者はそれに次ぐ地位を持った傍系ともいえる人物の墓と理解されている。最高首長墓については、稲荷山古墳に始まり、六世紀前葉のニ子山古墳に続くのは六世紀後葉の築造と推定される鉄砲山古墳と将軍山古墳であり、六世紀中ごろにブランクが存在する。傍系と考えた瓦塚古墳は全長七三メートルの前方後円墳であるが、埴輪の特徴や造り出しから出土した須恵器がMT15型式からTK10型式の過渡期的な位置付けが可能なので、六世紀の第二四半期ごろに比定することが可能である。また、全長七〇メートルの奥の山古墳も埴輪の観察からは近接した時期の築造と考えられる。最も規模の小さい前方後円墳である愛宕山古墳(あたごやまこふん)はニ子山古墳に近い時期の築造と考えられてきたが、円筒埴輪の形態が将軍山古墳の物と共通することを重視すると六世紀後半まで下降する可能性がある。これらの小型の前方後円墳は大型前方後円墳の築かれなかった六世紀中ごろを中心に継続的に築造された古墳である可能性が考えられるのである。


図51 中の山古墳の想定復原図

2重堀の形は他に例のない剣菱形か。

一方、最も新しい前方後円墳については、従来、将軍山古墳を候補とする研究者が多かったが、将軍山古墳には円筒埴輪が伴っており、埴輪がなく底部穿孔(ていぶせんこう)された須恵質埴輪壺(すえきしきはにわつぼ)を持つ中の山古墳の方が新しいことが最近の調査で明らかとなった。中の山古墳の埴輪壺は全国的にも類例のない特殊な遺物であるが、埴輪の生産体制が崩壊した直後に須恵器工人に製作させた墳丘表飾物として評価されるので、埴輪の消滅する六世紀末から七世紀初頭の年代を充てて良いものと思われる。中の山古墳に続く首長墓は二重周堀を持つ一辺四五メートルの方墳である戸場口山古墳(とばくちやまこふん)であることが、埼玉県立さきたま資料館の近年の調査で明らかとなっている。須恵質の埴輪壺は伴っておらず、遺物は須恵器の壺しか出土していないが、倒卵形(とうらんけい)の特徴的な器形から七世紀前半代の物と推定されよう。


図52 中の山古墳出土の須恵質埴輪壺

埴輪の終焉後に須恵器の技法で作った代替品か。

埼玉古墳群は以上の検証によって、五世紀後葉の稲荷山古墳に始まり、六世紀いっぱい前方後円墳の築造が続き、七世紀前半代に大方墳をもって築造が終わることが確認されよう。このことは約二〇〇年の間、安定した大勢力が埼玉古墳群をその墳墓の地として利用し続けたことを示すものといって良いだろう。並行する時期の旧武蔵国内の各地の古墳と比較した場合に、抜きんでた規模を保持し続けていることから、武蔵最大の政治勢力であったことは論を待たないであろう。しかしいわゆる国造(くにのみやつこ)に相当する勢力であって、 武蔵一国を支配していたものかどうかは別に検討を要するものと考える。

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