北本市史 通史編 古代・中世

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第1章 大王権力の東国進出

第1節 金錯銘鉄剣の語るもの

杖刀人首と丈部(はせつかべ)
礫槨(れきかく)の被葬者ヲワケが、「杖刀人首」としてワカタケル大王に奉事していたことはすでに見てきたとおりであるが、杖刀人首とは如何なる歴史的意義をもつものであろうか。杖刀人については『山陽公載記(さんようこうさいき)』の記述に従って「刀を杖つく人」と解する説と、『東大寺献物帳』や『令義解(りょうのぎけ)』に拠り、儀杖用の「杖刀をもつ人」と解する二様の説がある。その見解の違いはいずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊と解する点で異論はない。
この杖刀人と並んで、江田船山古墳出土鉄刀銘に見える「典曹人(てんそうじん)」が注目された。これは『後漢書(ごかんしょ)』の「曹(つかさ)の文書を典(つかさど)る」から、文書をつかさどる令史と同様な職掌をもつ文官とされる。こうして雄略朝の金石資料から「杖刀人」「典曹人」という二つの職官名が確認されたが、さらに雄略紀を見ると虞人(やまのつかさ)・失人部(ししひとべ)・厨人(くりやびと)・湯人(ゆえ)・漢手人(あやてのひと)・船人(ふなひと)・養鳥人(とりかいひと)というそれぞれ「某人」と表記される職官名(人制)が集中的に出て来る。この「某人制」は、雄略(ゆうりゃく)期前後に大王家が関東や九州を含めた地方豪族を一定の政治的従属関係に編成していき、何某の職掌によって組織化していったことを示している。その一つが杖刀人で、大王のもとに杖刀人を指揮命令し統轄したのが「杖刀人首」である。
ところで杖刀人は、佐伯有清によると丈部(はせつかべ)の前身とされ、杖刀人と丈部の密接な関係を指摘している。丈部は中央軍事豪族の阿倍氏と深い関係をもっており、阿倍氏の活躍が見られた東海・東山・北陸道に多数分布し、大化前代には主として東国に設置されていた。しかもそのほとんどは国造族もしくはそれに準ずる豪族層=後の郡司層に見られた。このため武蔵・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)の丈部は、トモノミヤッコに固有の「直姓」を称していた。武蔵国の例では、後年ではあるが横見(よこみ)郡・足立郡に丈部直一族の居住がみられた。それは次の資料によって知られる。
(一) 郡司少領下正八位下勲十二等杖部直1   (庸布墨書銘)
(二) 武蔵国足立郡人外従五位下丈部直不破麻呂 (続日本紀)
(一)は横見郡の人が税の一種である庸(よう)として納布した布に、横見郡の役人として管理した郡司少領名を書いたもので、実名を欠くが、横見郡の郡少領に「杖部直」と名のる豪族のいたことを伝えている。杖は丈に通じ、杖部は丈部と同じとされるが、杖部直氏の存在は、武蔵にその配下の無姓の杖部氏の存在をうかがわせるが、現存資料からは確認できない。直姓(あたえせい)をもつことは伴造氏族として国造族の一員であることを示している。(二)の丈部直不破麻呂(はせつかべあたえふわまろ)は、足立郡司となっており、彼は後に武蔵宿瀰(すくね)の姓を賜り、武蔵国造に任ぜられているが、これは丈部直氏が譜代の豪族(国造族)だったことに由来する。また『日本霊異記(にほんりょういき)』に「多麻郡小河郷人丈直山緑」と名乗る人物が見えるが、彼も多磨郡少領に任ぜられており、丈部直氏の一族と考えられる。このように銘文に見える杖刀人は後の丈部に関わり、丈部は杖刀人と同様に軍事面を掌(つかさど)る部民であったろう。

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