北本市史 通史編 古代・中世

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第1章 大王権力の東国進出

第2節 国造と部民

武蔵国の国造
五世紀前後の大和大王家の活躍の姿を伝える『宋書』には、倭王武の祖先の大王たちが、東に西に軍を進めて国内統一事業を進め、さらには朝鮮半島まで進出していった英雄的姿を描いている。この大王家の東国経略の状況は、具体的には国造(くにのみやつこ)の任命や、部民の設置記事に見られる。『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』中の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」(古代・中世No一)によると、六世紀中葉ごろの我が国には、一四四か国に国造が置かれていたという。本書の史料性については疑義があるが、国造名については、六世紀中葉以降、七世紀後半までの間に実在した可能性が高いとされている。同書によると、後の武蔵国域に置かれた国造は、无邪志(むさし)国造・胸刺(むなさし)国造・知々夫(ちちぶ)国造の三国造で、知々夫国造は崇神朝(すじんちょう)に知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、无邪志国造は成務朝(せいむちょう)に兄多毛比命(えたもひのみこと)が、胸刺国造は兄多毛比命の児伊狭知直(いさじのあたえ)がそれぞれ任命されたという。知々夫国造はその姓が居地命+ヒコ・ミコトで、その系譜も高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子の八意思金命(やごろもおもいかねのみこと)の十世の孫として、出自を中央豪族に求める作為がうかがえるが、「知々夫」の名が示すように秩父地域に幡居(ばんきょ)した在地の豪族であった。秩父は大王勢力に対し独立を保っていた上野(こうずけ)国と地理的に近かったので、その縁で知々夫彦命は早くから大王家に服属したのであろう。その統治領域は、古墳の分布から考えて秩父郡と児玉郡を中心とする武蔵北西部の山麓・丘陵を中心とする地域と考えられる。
无邪志国造と胸刺国造については、父子の関係をもち、またその音が似ていることから、重複として一国とする説と、南北武蔵の古墳の消長と綠めて二国とする説がある。近世の地誌『新記』は二国造説に立って、氷川神社の鎮座する足立郡大宮を无邪志国造の本拠(足立府)、都下多摩郡を胸刺国造の本拠と推定しているが、それは次の『日本書紀』の伝承と係わりがある。

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