北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第1節 地方制度の整備

大化改新と地方制度
六四五年六月、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)等は専制豪族蘇我(そが)氏を打倒し、国政改革を断行して、天皇を中心に中央の諸豪族を結集した中央集権国家への道を踏み出した。新政府は年号を大化(たいか)としたので、以後の一連の政治改革を大化改新と呼ぶ。その年八月、改新政府は政府にとって重要な地域とされた東国に、八人の国司を派遣した。このころの東国は、三河、信濃以東の東海・東山道地域をさし、国司の任務・権限は、のちの令制国司とは相違するが、中央集権的地方行政制度の原型をなすものであった。ただし、この時の改新政府の施策は、従来の国造層の地域支配を一挙に否定するものではなく、国造とその支配下の人民を徐々に新しい国家体制に取りこんでいこうとするものであった。
翌大化二年(六四六)正月、改新の詔(みことのり)を発し、(1)皇族・諸豪族の私有地・私有民の廃止、(2)京師(けいし)や国・郡・里などの地方行政機構の確立、(3)戸籍の作成と班田(はんでん)収授法の実施、(4)租・庸(よう)・調、その他の統一的課税制度の施行の四項目にわたる改革の大綱を示した(古代・中世№五)。この詔の信憑性(しんぴょうせい)については従前からいろいろ論議はあるが、天皇中心の中央集権国家体制を目指す政治方針が、この時に示されたことは認めてよいだろう。しかしその実施は、当初国の内外にわたる不安定な政情のため、本格的な実施は飛鳥浄御原律令(あすかきよみはらりつりょう)の編さんが進められた天武朝(てんむちょう)以降のことと思われる。従って武蔵国の成立も、その確たる時期は不明で、常陸国が、『常陸風土記』によると孝徳朝(こうとくちょう)に成立したとあるので、これが東国における国郡画定の傍証(ぼうしょう)となるやも知れない。天智の没後に起こった壬申(じんしん)の乱を克服し、国内に安定をもたらした天武朝にはいると、律令国家体制は急速に進み、同十二年(六八三)に諸国の境界が画定され、文武(もんむ)二年(六九八)に諸国郡司の任命、大宝二年(七〇二)に「大宝律令」の施行と地方制度は急速に整えられた。翌三年七月には、従五位下引田朝臣祖父(ひきたのあそんおおじ)が文献上初見の武蔵国司として任命されており(古代・中世№六)、武蔵国に対する律令支配の浸透を窺(うかが)わせる。

写真2 武蔵国衙跡

(東京都府中市教育委員会提供)

律令支配のもととなった大宝令の全文は現存しないが、その内容は養老二年(七一八)制定の「養老令」によってほぼ知りうる。それによると、国は課口や田畑の多寡(たか)などによって大・上・中・下の四等級に区分され、武蔵国は大国とされた。国政の責任者である国司は中央から派遣され、定数は表2のとおりであった。このほか職員令(しきいんりょう)の規定では国博士(くにつはかせ)や国医師が置かれたという。国の下部機構としては郡(当初は評(こおり))と里(のちに郷となる)が置かれた。


表2 国役人の構成
等級 守 介 掾 目 史生 計 
大 大1 
小1 
大1 
小1 
上 
中 
下 
国司は国衙(こくが)に勤務して、国内の民政全般を掌り、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官(しとうかん)があった。国守の職掌は、国内の行政・司法・警察・軍事・宗教・土木・教育・交通等、国の内政全般にわたり、中央政府の指示のもとに徳化主義で人民を撫育した。主な任務は勧農と徴税にあったことはいうまでもない。任期は当初六年、後に四年に短縮された。介以下は国守の補佐に当たった。国司は職分田と共に公廨稲(くがいとう)の配分にあずかり、収入の多い魅力ある職とされた。後には公廨稲の配分のみにあずかる名目上の国司が成立し、国司制度を崩壊させる要因となった。武蔵国衙は多磨郡小野郷(東京都府中市)に置かれた。

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