北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第3節 地方豪族の成長

足立郡司丈部直氏の登場
足立郡の人の活躍が中央史料に見られるのは、丈部直不破麻呂からである。不破麻呂は天平宝字(てんぴょうほうじ)八 年(七六四)に起こった反徒恵美押勝(えみのおしかつ)の誅伐に軍功を挙げ、他の功臣と共に外従五位下に昇叙している(古代・中世№一四)。当時の地方豪族は、前項で述べたように膨大(ぼうだい)な財物の寄進によって位階を獲得しその特権に浴するか、さらには郡司に任命され、律令官人の末端として特権を得ようとするか、それとも中央政界に進出して政府の中下級官人の地位を得、その権威を利用して勢力拡大策を図るという例がみられた。
とりわけ八世紀中葉以降、中央では大仏造立を契機とした政情不安のもとで、政治権力をめぐり緊張と対立が深まり、権力者の間で地方豪族の軍事力を利用した勢力拡大策が図られた。この時不破麻呂は天皇家の傭兵(ようへい)として都に進出し、内乱や政変に軍功を挙げたのである。武蔵国では入間郡出身の物部直広成もその途を辿(たど)った。
不破麻呂ら武人が足がかりにしたのは天皇家の私的軍事力である授刀舎人(じゅとうとねり)(天平宝字三年授刀衛と改組)であった。彼らは「額に箭(や)は立つとも背に箭は立てじ」と称された孝謙(こうけん)女帝の忠実な軍隊であった。
この後、不破麻呂は授刀衛を改組した近衛府(このえふ)の員外少将に抜擢(ばってき)され、さらに左衛士員外佐(すけ)と武官の要職を歴任した。一方の物部広成も、授刀舎人として、恵美押勝軍を愛発(あらち)関で討伐して押勝敗死の原因を作り、その後蝦夷征討軍の軍監(ぐんかん)・征東副将軍と武官職を歴任している。
神護景雲(じんごけいうん)元年(七六七)八月、不破麻呂は下総員外介(いんがいのすけ)を兼任(古代・中世№一五)、同年十二月六日、一族六人と共に武蔵宿禰(すくね)の姓を賜り、同八日には武蔵国造となった(古代・中世№一六・ 一七)。この時任命された武蔵国造は、改新前の旧国造とは異なり、一国一員の神祗祭祀を職掌とするいわゆる新国造(別に律令国造ともいう)であったから、その奉斎(ほうさい)する足立郡氷川神社は武蔵国の鎮守に位置づけられたのであろう。なお、前年の天平神護二年(七六六)氷川神社にも三戸の封戸(ふこ)が寄せられている(『新抄格勅符抄』)。
次いで神護景雲三年(七六九)、上総員外介に任じて、中央官人の位である内位の従五位上に栄進。さらには宝亀(ほうき)四年(七七三)二月三十日の太政官符(だじょうかんぷ)には左衛士員外介として奈良佐保川堤の修築に従う(『寧楽遺文(ならいぶん)』)など、地方豪族としては異例の官職昇進と活躍を見せていた。
地方豪族の立身出世が困難な中で、このような経歴をもった不破麻呂は、彼の武人および政治家としての資質に負う点が多かったと思われるが、その他、次に述べるその娘柔女家刀自(うねめやかとじ)の天皇との深い関係や、武蔵国高麗郡出身の武人、背奈福信(せなふくしん)(後に高麗朝臣福信と改名、孝謙(こうけん)女帝の即位時に紫微少弼(しびしょうすけ)を務めていた)などの支援もあったろうと思われる。
なお、丈部直氏の本貫(ほんがん)の地がどこかは明らかでないが、不破麻呂らが足立郡司・武蔵国造として氷川神社を奉斎していた可能性が高いので、足立郡家郷(ぐうけごう)に居住していたと考えられる。郡家郷は氷川神社の所在から見て、見沼に臨む高台一帯、中世の高埔郷(たかはなごう)(浦和市と大宮市の市街地の周辺)の地とも思われるが、それを裏付ける遺跡は確認出来ない。一説には、鴨川下流域で群集墳や古瓦出土の遺跡が存在し、また浦和市の大久保領家廃寺跡や、条里遺構の見られる殖田郷(うえだごう)と目される地域とする考えもある。
采女家刀自とその後裔
不破麻呂の娘とされる家刀自(やかとじ)は、郡司家の子女として采女(うねめ)に貢進された。その時期は明らかでないが、光明子(こうみょうし)の立后と共に、天平元年(七二九)皇后宮職(こうごうぐうしき)が新設され、同十四年五月に郡毎に采女一人の貢進(こうしん)が命ぜられているので、それと関係があるのかも知れない。
采女は、本来大化前代に地方豪族を征服した大和の大王家が、豪族たちに自らの服従の証としてその娘を貢進させたことに端を発する、いわば人質としての性格をもっていた。ところが天平十四年の改正は、旧来の天皇家への服属関係を崩し、後宮諸司の雑役女人として徴発する形に変化し、職掌上天皇に近侍したため、奈良時代も後半になると後宮(こうきゅう)女官として高い位階や官職につく者も出てきた。家刀自もその一人といえよう。
家刀自は武蔵宿禰(すくね)を名乗っているので、神護景雲元年に一族六人の一人としてその姓を賜ったのであろう(古代・中世№一六)。宝亀元年(七七〇)には外従五位下から従五位下に昇進、延暦二年(七八三)には、正五位下、同四年正月には正五位上、翌五年正月には従四位下と異例の昇進をとげた。しかし、家刀自は采女出身のためか、職掌と官位は相当せず、職掌は内侍司の三等官の掌侍(かにもりのじょう)(相当位は従七位)と、掃司の二等官の典掃(かにもりのすけ)(同従八位)にとどまった。しかし、天皇に近侍したので政治的な情報も得易く、生家では家刀自を通じて天皇と密接な関係を維持して、自己の政治的・経済的地位を高め、また在地における私営田経営の拡大にも利用し豪族化の途を歩んだと思われる。
ところで八世紀後半の称徳(しょうとく)女帝(孝謙重詐(こうけんちょうそ))の政権は、道鏡(どうきょう)禅師の登場によって女帝・道鏡・後宮を中核とした仏教政治体制を成立させて貴族層の反発を招き、政界は緊張状態にあった。宇佐(うさ)八幡宮の神託事件は、このような情勢における象徴的な出来事であった。かつては、自己勢力拡大のため地方豪族の中央政界進出を可能にしてきた藤原氏ら貴族層は、宝亀元年(七七〇)、称徳女帝が死去すると、奸臣(かんしん)道鏡を追放し、光仁(こうにん)天皇を擁立して政治の再建を図った。以後、政界の主導権は再び中央貴族層の手にゆだねられ地方豪族は駆逐されていった。
この趨勢(すうせい)は武蔵氏の動向にも見られ、延暦六年(七八七)采女家刀自が没すると(古代・中世№一八)、中央との関係は稀薄になっていった。それでも、弟の弟総(おとふさ)の代にはまだ余韻を残し、翌七年六月には弟総が財物寄進の功によって外従五位下を授与され、次いで同十四年十二月十五日に、父同様武蔵国造に任命された(古代・中世№一九・二〇)ことを最後に、中央資料から姿を消した。
弟総以後の武蔵氏の動向については、十世紀の『将門記』に見える武蔵武芝まで明らかではない。僅かな地元資料である「西角井系図」に、弟総以後武芝まで代々足立郡領を継承していた系譜を見ることが出来るが、この系図は後世種々の資料を利用して制作された可能性が高いので、そのままを信じることは出来ない。


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