北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第1節 地方制度の整備

横見評と足立の郡郷

写真3 飛鳥浄御原宮跡出土木簡

(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館蔵『埼玉県史通史編1』より転載)

写真4 平城京二条大路出土木簡

(奈良国立文化財研究所許可済 埼玉県県史編さん室提供)


国の下部機構とし設置された郡は、もとは評(こおり)と表記されていた。藤原宮跡出土の文武(もんむ)天皇三年(六九九)銘の「上挟国阿波評松里(かずさのくにあはごおりまつさと)」とある木簡(もっかん)や栃木県の那須国造碑(持統(じとう)天皇三年=六八九)の「評督(こおりのかみ)」の記述から明らかである。武蔵国に関わる評名資料としては武蔵国横見(よこみ)郡と思われる「相□詛<横カ><見カ><評カ>」と記された飛鳥京跡出土木簡がある。この木簡は中国六朝(りくちょう)風の書体や検出土の層位的関係、また共に出土した須恵器(すえき)の形式などから藤原京に先立つ七世紀中葉から後半期末葉ごろのものと推定され、天武朝には武蔵国に評制のしかれていたことを示している。横見郡には早くから屯倉(みやけ)が設置されていたことと深い関係があろう。

写真5 武蔵国分寺跡出土の郡名瓦

(東京都国分寺市教育委員会蔵)

郡(評)制の施行は、従来国造が支配していた群集墳を残したような地方的集団を単位として分割編成したもので、郡司(評造・評督)にはその地域の有力者を任命した。その設置は一斉ではなく、在地の状況に応じて漸次行われ、高麗(こま)郡や新羅(しらぎ)郡のように新政施行によって生じた問題処理のために、後に設置されたものもある。
武蔵国には、『延喜式(えんぎしき)』によると、久良(くら)・都筑(つづき)・多磨(たま)・橘樹(たちばな)・荏原(えばら)・豊島・足立・新座(にいくら)・高麗(こま)・比企・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・児玉・賀美(かみ)・秩父の二ー郡が置かれ(中世末には下総国葛飾郡の一部が武蔵に移りニニ郡になる)陸奥三五郡に次ぐ全国二位の郡数を擁していた。
市域が属した足立郡(埼玉県北足立郡、東京都足立区を合わせた地域)は、荒川(旧入間川)と元荒川にはさまれた地域に南北に長く位置し、その編成設置の時期は不詳であるが、天平(てんぴょう)七年(七三五)十一月銘の「平城京出土木簡」に「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升」とあるのが文献の初見である。その木簡は平城京二条大路の土壙から検出され、長さ一五六ミリメートル、幅ニニミリメートル、厚さ五ミリメートルで足立郡から貢送された蓮の実の荷札として付けられたものであろう。
このほかには、天平十三年(七四一)の国分寺造立の詔により創建された武蔵国分寺跡出土の瓦銘と、『続日本紀(しょくにほんぎ)』神護景雲(じんごけいうん)元年(七六七)十二月条の「武蔵国足立郡の人外従五位下丈部直不破麻呂(はせつかべのあたえふわまろ)ら六人に、姓を武蔵宿禰(むさしのすくね)と賜う」(古代・中世№一六)の記述である。
郡も郷数によって等級が付けられ、初めは三段階、令制では大(三〇里以下一六里以上)、上(一五里以上)、中(八里以上)、下(四里以上)、小(三里以下)の五段階とされた。郡司の数も表3のように定められていた。
表3 郡役人の構成
等級 大領 少領 主政 主帳 計 
大 
上 
中 
下 
小 領1 
足立郡は『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(古代・中世版三四)によると七郷を擁したとあるので下郡にあたり、大領一、少領一、主張ー、これに書記役の郡書生・案主(あんじゅ)や下役の鎰取(かぎとり)・駅使(はせつかい)・税長などがいたことになる。
郡司は、郡内の民政と治安全般をつかさどり、国司と異なる点は、国内譜代の人々から任命され、かつ終身官だったことである。そのため、多くが旧来の国造層から選ばれたので、政府は延暦(えんりゃく)十七年(七九八)に世襲制の弊害を改めようと譜代制を廃止し、芸業著聞のものを採用しようとしたが失敗し、弘仁(こうにん)二年(八一一)には再び世襲制に戻している。
当時の足立郡は南部一帯には湿地帯が広がり、人々は大宮台地周辺部や自然堤防上に居住していたので、集落の分布は北に偏在し郷里や遺跡の分布にも明瞭に示されている。
次に里は地方行政機構の末端単位であり、郷戸(ごうこ)五〇戸をもって一里(郷)に編成されていた。里長(りちょう)(霊亀(れいき)元年以降は郷長(ごうちょう)となる)は、里内の住民の中から清正強幹な者が任命された。その任務は、里内の戸口の按検・勧農と徴税・賦役(ぶやく)の催斬(さいく)を職掌とする収税吏と非違を紏す検察官の二役を主業務としていた。里長の苛酷な収税吏としての姿は、『万葉集』所載の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」(巻五の八九二)によく表されている。
里は、霊亀(れいき)元年(七一五)以降「郷」と改められ、その下に〃こざと〃としての「里」が置かれ、国郡郷里制となった。その実施例を武蔵国関係の資料で見ると次の通りである。
武蔵国男衾郡鵜倉郷笠原里 飛鳥部虫麻呂調布一端
天平六年(七三四)十一月 (正倉院宝物 白布墨書)
足立郡には、堀津(ほっつ)、殖田(うえだ)、稲直(いなほ)、郡家(ぐうけ)、発度(ほつと)、大里、余戸(あまるべ)の七郷があった(古代・中世№三四)が、これらの郷が現在のどの地域にあたるかについては、諸説があり詳(つまび)らかではない。市域は鴻巣市、吹上町とともに余戸郷に属したとされ、郡司が政務を行う政庁は郡衙(ぐんが)と称し、郡家郷(現在の大宮市一帯)に置かれていた。

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