北本市史 通史編 古代・中世
第2章 律令時代の北武蔵
第2節 農民の負担
租税の課役律令制が施行されると、農民は口分田(くぶんでん)班給の代償として租税や賦役(ぶやく)負担を強いられた。これは地方の実情を無視した賦課であったから、農民の負担観を苛酷(かこく)にし、加えて八世紀以降の造寺・造官衙役が一層農民を苦しめた。
農民は、一般に「編戸の民」とか「調庸(ちょうよう)の民」とか呼ばれ、六年毎に作成される戸籍や、毎年作られる計帳に詳しく登録され、租税賦課対象者として明確に把握されていた。
表5 農民にかかる負担区分(養老令施行期)
口分田は輸租田(ゆそでん)(国家に租税を納めるように定められた田)であったが、家族の成員や奴婢(課税免除)を多く持つ戸はそれだけ多くの田地を与えられ、より高い生産力を維持できた。それに対する課役の負担区分は、表5のとおりであった。負担は、大別して生産物貢納と労役に分けられ、租・調は生産物貢納、庸は労役とされたが、後には庸も布で納付するようになり、三者とも生産物貢納になった。
租は、田一段つき二束二把(一束一〇把、一束約三キログラム)で、当時の段別標準収穫量七二束の約三パーセン卜とされ、租率は比較的低い。慶雲(けいうん)三年(七〇六)には一束五把(但し標準収穫稲は五〇束)と改定されたが、実質的変化はない。租稲は、郡や国の正倉に納入保管された。
納入された租は、正税(しょうぜい)・公廨(くがい)・雑稲に分けられ、正税は中央へ送られ、公廨は地方庁(国府)の費用に当て、雑稲は国分寺等官寺の費用、道橋の修理費、行路病者等の救恤(きゅうじゅつ)費等に当てられた。平安期からは、それらの中から強制的に農民に貸し与えて利息をとる出挙(すいこ)の制度が行われるようになった。
武蔵国の場合の租を、『延喜式主税式』および『倭名類聚抄』によって整理してみると次のとおりであった。
総田数三万五五七四町七反九六歩
本稲(出挙稲)一一一万三七五〇束五把
内 正税四〇万束
公廨四〇万束
雑稲 三一万三七五〇束五把
庸は、正丁(せいてい)が歳役として一年に一〇日間(次丁(じてい)は五日間)上京して、都で労役に服す代わりに、正丁は麻布を一日二尺六寸の割合で二丈六尺、次丁はその半分を京に運ばせ大蔵省に納付し、中央政府の財源とした。京へ送るための運脚夫は庸を出す戸の負担であり、農民に二重の負担を強いた。このため、養老元年(七一七)以降はー丈四尺に減額された。
調は、絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布などの繊維製品や、その国の産物を租税として一定量貢納した。『延喜式』には各国ごとに貢納する調と、中男作物(ちゅうなんさくもつ)(一七歳から二〇歳、後に一八歳からニ一歳の男子に課せられた調で正丁の四分の一)の品目やその賦課量を定めている。あわせて正税で買い入れて京へ送るべき産物が列記され、それらの品々から当時の武蔵国の産業の実態をうかがうことができる。
この調として貢納した品々はしばしば改定されたらしく、武蔵国では和銅六年(七一三)にそれまで布を貢納していたのを、以後は絁(あしぎぬ)を布と共に納めるように改められている。
写真6 平城京跡出土木簡
(奈良国立文化財研究所許可済 埼玉県県史編さん室提供)
これらの調・庸は国郡司の検校のもとに収納され、国府に廻されて国別に一括し、十一月三十日以前に担当国司の管理のもとに京へ送られた。行程も厳しく規制されており、武蔵国の場合、上りは二九日、下りは一五日と定められていた。
次に労役として、正丁が年間六〇日以下の国司の使役に従う雑徭(ぞうよう)、五〇戸毎に正丁二人が三年間、中央官庁の労役に従う仕丁、正丁三丁に一丁の割で課される兵役があった(後述)。