北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第2節 農民の負担

小敷田遺跡の木簡
行田市の埼玉古墳群の西方、約四・六キロメートルほど隔てたところに小敷田という所がある。ここは荒川左岸新扇状地の末端に位置し、旧荒川の氾濫原(はんらんげん)として水田に適した低湿の地である。この地の自然堤防上には、弥生期から奈良期にいたる集落遺構(小敷田遺跡)が存在し条里跡も見られ、早くから人々が住みつき開発の鍬を振ったことを伝えている。小敷田遺跡の発掘は、国道十七号熊谷バイパス建設工事の実施により、昭和五十八年度から六十年度にかけて行われ、住居跡一四軒、掘立柱建物跡二棟、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)一五基、水田跡一面、溝跡六七条、土壙(どこう)一三〇基、井戸跡二本などが検出された。
出土遺物の中で最も注目されたのは木簡である。昭和五十九年(一九八四)三月、二棟の掘立柱建物跡脇の土坡二基から計一〇点の木簡を検出した。このうち最も世上の関心を引いたのは、九七号土壙出土の出挙(すいこ)関係の木簡である。この木簡は長さ一五八ミリメートル、幅三二ミリメートル、厚さ二ミリメートルのヒノキ材で、その両面に墨書文字が表に一一字、裏にニ一字の計三二字が釈読された。年時の明確な表記はないが、伴出した須恵器(すえき)や銘文の書体から七世紀末から八世紀初頭の藤原京期に属すると考定された。釈文は次の通りである。
(表)「九月七日五百廿六□四百」
(裏)「卅六次四百八束并千三百七十
小稲二千五十五束」

写真7 小敷田遺跡跡出土木簡

(埼玉県立埋蔵文化財センター蔵)

文意はおおよそ以下のように考えられよう。収穫時の九月七日、春または夏に借りた稲は五二六束、四三六束、四〇八束、あわせて一三七〇束、これに五割の利息を加えた元利合計は二〇五五束と解され、古代の出挙の実施を示す数値を記したものと考えられる。五割の利稲は「養老雑令」に規定する公出挙(くすいこ)の利稲額に合致し、八世紀前後の武蔵埼玉郷周辺において出挙が実施されたことを示し、我が国最古の公出挙実施の具体例として興味深いものがある。
出挙は、古代に行われた利息付きの貸借をいい、本来は隋や唐で行われた公廨(くがい)銭物の利息付消費貸借制度であった。それが他の文物諸制度とともに我が国に取り入れられ、後に「養老雑令」によって明確化された。当初は貧窮農民の救済や勧農の狙いを色濃くもっていた。養老令によると、出挙には、(1)国家が貸し付ける公出挙と、私人が貸し付ける私出挙(しすいこ)の二通りがある。(2)貸し付ける物によって財物出挙と稲粟出挙がある。(3)財物出挙は六〇日毎に元本の八分の一の利息を取り、稲粟出挙は公出挙ならば年に半倍の利(年利五割)、私出挙ならば一倍の利(年利一〇割)とし、そのいずれもが利息が元本を超えないことと、複利の運用を禁じていた。(4)そして返納不能の場合は、労役によって償(つぐな)わせると規定していた。
とりわけ稲の出挙は、公出挙の中心をなし、農民の自由意志による貸借ではなく、時代が降るに従って国家財政の一環として強制的に貸し付けられた。
国衙は貯備する稲を春・夏の二度にわたって農民に貸付け、秋の収穫時に元本の本稲と、五割の利稲を徴収した。利稲は国衙の諸費用や中央政府に納入する交易運上物の購入費に充てられた。
このように公出挙は国家財政の窮乏化により次第に租税化の性格を強くし、後には在地富豪層が行っていた私出挙と結合するなどして、公出挙本来の社会政策的、勧農政策的性格を失っていった。そのため出挙を強制された農民は返納に苦しみ、口分田を売って他郷に流出する大きな原因となった。

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