北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第2節 農民の負担

防人と衛士
古代の農民は、班田収授法のもとで租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)および出挙(すいこ)などの外に、兵役が課せられた。兵士には労働力の主体となる正丁(せいてい) (ニ一〜六〇歳)のうち三分の一が充てられたので、兵士を出した家は農業生産の主な担い手を失い、生活困窮に陥(おちい)った。兵役は大別して諸国の軍団の兵士に徴される者、衛士(えじ)や防人(さきもり)に派遣される者に分かれた。このうち最も重い負担は防人役であった。加えて、坂東地方は蝦夷地(えぞち)に近かったので蝦夷征討の兵站(へいたん)基地の役目を負わされ、食糧・兵器の供給と共に兵士の派遣を強制されるなど、人的物的負担は一層過重であった。
諸国には通常一〇〇〇人の兵士からなる軍団を各地に設置するとされたが、規定どおりには行われなかったようである。軍団は兵部省の管轄のもとに国司が統轄し、兵士を実際に教導する指揮官は大毅(だいき)・小毅(総称して軍毅という)が当たった。軍毅は旧国造の系譜を引く郡司一族の子弟から任命されることが多く、大化前代からの在地首長層による農民支配力の関係が継承されていた。このため軍毅は、軍事訓練よりも自己の所有地の耕作に兵士を使役したので、兵士は軍隊として全く役に立たないのが実態であった。
兵士は、武器や食糧は自弁とされ、軍防令には兵士が準備し携行(けいこう)すべき武器・戎具を表6のように定めていた。このため雑徭は免ぜられたが、調庸の負担は免れず、加えて国司や軍団幹部の使役に駆使されたので、逃亡が続出した。こうして軍団の兵は、国家の軍隊としての機能を果たせず、政府は延暦十一年(七九二)に郡司の子弟から選択した健児(こんでい)制の採用によって、軍団制を停止した。

表6 兵士が準備すべき武器・戎具
弓(ゆみ) ・・・・・・・・・1張 
弓弦袋(ゆずるぶくろ)・・・1口
副弦(そえずる)・・・・・・2条 
征箭(そや)・・・・・・・・50隻 
胡窓(やなぐい)  ・・・・・1具
太刀(たち)・・・・・・・・1口
刀子(かたな)・・・・・・・1枚 
礪石(といし)・・・・・・・1枚 
闔帽(いがさ)・・・・・・・1枚 
飯袋(いいぶくろ)・・・・・1口
水甬(みずおけ)・・・・・・1口
塩甬(しおおけ)・・・・・・1口
膛巾(はばき)・・・・・・・1具 
鞋(からわらぐつ)・・・・・1両 
武蔵国では、多磨軍団以外にその存在は不明であり、従って足立軍団の存在も明らかでない。健児は、国内の兵庫や鈴蔵・国府の警備を任務とし、武蔵の健児は一五〇人とされ、足立郡の子弟もその任についたことであろう。彼等は六組に分かれ、半月毎に交替勤務に着いたが、一組は二五人に過ぎず、国内の治安維持機構としては不十分であった。しかし、健児制は平安末まで存続し、中世武士団成立一要因となった。
衛士(えじ)は、都城の宮門警備その他の雑役に従った。彼等は衛門府(えもんふ)(四〇〇人)や左右衛士府(各六〇〇人)に配属され、任期は一年と定められていたが、任期は守られず長期間使役されることが多かったため脱走者が多かった。そのため養老六年(七二二)から任期を三年に延長し、上番中の雜徭は免除されたが、防人に次いで負担が過重で農民疲弊の原因となつた。
平安時代に成立した『更級日記(さらしなにっき)』には、武蔵出身の衛士が帝(みかど)の姫と共に生国に逃げ帰ったという竹芝寺伝説を伝えているが、これは反面重役を免れて逃亡する衛士の姿を窺(うかが)わせるものである。
防人は主として東国から派遣されて、筑紫(つくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)など北九州沿岸の守備に当たった。任期は三年で、毎年二月に三分の一を交替すると定められていたが、衛士に比べると在番は長期であった。防人は兵士と同様に弓矢・太刀など所定の武器と、難波津(なにわづ)までの食糧を自弁しなければならず、また在地から難波津に至る間は往復とも上番期間に含まれず、交替も確立していなかったので、服役期間は長期にわたり、農民はその重圧に苦しんだ。
天平十年(七三八)の『駿河国正税帳(するがのくにしょうぜいちょう)』や『筑後(ちくご)国正税帳』・『周防(すおう)国正税帳』によると、この年筑紫から帰国した防人の人数は二五〇〇人前後と推算され、そのほとんどは東国諸国から派遣されていて、防人の東国専遣の実態を如実に示していた。
防人軍の構造は、岸俊男・直木孝次郎の研究によると『万葉集』防人歌の左注の検討から、国造軍の遺制が色濃い国造丁(よぼろ) (国造)-助丁(すけのよぼろ)-主帳丁 (帳丁・主帳)—(火帳)—上帳(防人)であった(古代・中世№九)。それは、旧国造層や舎人直(とねりあたえ)を指揮者とし、その縁者並びに有姓者が中核となり、貧しい農民の出身者である部民を主構成員としていた。

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