北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第2節 農民の負担

乎多須(おたす)の逃亡
律令制度が実施されると、農民は前述のように各種の負担や労役に従うことになった。租庸調の負担のほかに、庸(よう)・調の運送や、防人(さきもり)・衛士(えじ)・仕丁としての出仕、都城の造営工事などの労役負担が農民を農耕生産から切り離したため、農民たちの生活を一層苦しめた。そこで農民の中には、戸籍に登録され、口分田の支給をうけていた本貫(ほんがん)の地を捨てて他所へ流出し浮浪人になったり、出仕している官司や工事現場から逃亡する者もあらわれるようになった。例えば、神亀三年(七二六)に作成された山城国愛宕(おたぎごおり)郡出雲郷の雲上里・雲下里の計帳(けいちょう)(「正倉院文書」)には、四〇〇名余の農民と奴婢(ぬひ)が記されているが、そのうち八五名が他所に逃亡している。その逃亡先は一四か国に及んだという。雲下里の計帳には、上毛野君(かみつけぬきみ)族長谷の戸口の出雲臣乎多須(おたす)(四〇歳・正丁)が、和銅(わどう)二年(七〇九)に武蔵国前出郡(埼玉郡)へ逃亡したことを記している。戸主上毛野君や乎多須の出雲臣の姓から考えると、彼らは独立自由農民で、かつ東国出身者だったと思われる。それがどうして山城に住み、計帳に登録されたかは不明であるが、おそらく山城での律令負担にたえられず、出身ゆかりの地へ逃亡したものと思われる。こうした浮浪・逃亡は乎多須のみに止まらなかったのである。
八世紀前後から浮浪・逃亡した農民たちは、国衙の追跡を避けるため中央貴族や地方豪族の隸属下に入り、彼らの私有民となる傾向があらわれてきた。このような状況に対処するため、律令政府は浮浪人を本貫に返すか、あるいは現地の戸籍に付して、公民支配を維持しようとしたが効果はなかった。天平(てんぴょう)八年(七三六)以降、彼らを浮浪人帳に登録し、庸・調・雑徭(ぞうよう)のみを徴収するという政策転換を行った。ここに浮浪人の身分が公的に成立し、従前の全人民を公民という単一の身分として把握する政策は放棄され、律令国家の支配体制を揺るがす原因となった。

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