北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第2節 農民の負担

蝦夷征討の兵站基地
「西の防人、東の征夷」と古代国家の二大強制労役といわれた防人徴発と蝦夷(えぞ)征討は、苛酷な徴税や賦役と並んで武蔵の農民を苦しめた。防人制は八世紀半ばごろには停止されたが、代わって蝦夷地経営のために大量の物資や軍兵を供給しなければならなかった。
蝦夷征討事業の本格的開始は、斉明天皇(さいめい)四年(六五八)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)による征夷(せいい)事業であるが、八世紀に入るとその事業もかなり進み、”まつろわぬ蝦夷“を北辺に追いやった。和銅五年(七一ニ)には出羽(でわ)国を建て、まもなく陸奥(むつ)に多賀城(たがじょう)を築き、警備線を北に進めていった。そして食糧や武器を補充して警備を強化する一方、その背後には坂東諸国の人々を「柵戸(さくこ)」として蝦夷地(出羽や陸奥)へ送りこみ、開拓に当たらせた。帰降した蝦夷には衣食を与えて生活の安定を図り、積極策としては佐伯(さえき)部としたり、内国の諸地域に移住させたりして同化を促進した。
柵戸は城柵によって安全を保障されたが、みずからもまた武装して生活を守る屯田兵(とんでんへい)的性格をもっていた。奈良朝初期は富民が柵戸として配され、蝦夷地経営に主要な役割を果たしたが、後期になると犯罪人や浮浪人を移したりして蝦夷地経営を一層むずかしくした。武蔵の人々がどれほど蝦夷地に送りこまれたかを文献上から見ると、まず霊亀(れいき)元年(七一五)武蔵など六か国の富民一〇〇〇戸を陸奥に配置し、養老三年(七一九)東海・東山・北陸三道の民三〇〇戸を出羽柵に配置した。同六年諸国(主として坂東地方と思われる)の柵戸一〇〇〇人を陸奥鎮所に配置、天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(七五九)坂東八国・越前等四国の浮浪人二〇〇〇人を雄勝(おかち)柵戸に移した。神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)陸奥の桃生(もものふ)・伊治(いじ)の二城が完成し坂東の百姓を移配、延暦十五年(七九六)武蔵など八国の人民九〇〇〇人を陸奥伊治城に移送、同二十一年武蔵・下総など一〇か国の浮浪民四〇〇〇人を陸奥国胆沢(いざわ)城に移すなど、その数は約九〇年間で合計一万八二〇〇人、他国の記述も含めると二万人を超え、想像以上の人々が蝦夷経営のために派遣されたのである。
政府は蝦夷対策の積極的施策として柵戸や浮浪人等の強制移住とともに征夷の軍事行動を起こし、その兵力の供給地は主に坂東諸国からであった。奈良朝における征夷は前後四回に及び、第一回は和銅二年(七〇九)の鎮東(ちんとう)将軍巨勢麻呂(こせのまろ)のもと、東国・北陸地方一〇か国の軍兵動員、第二回は養老四年(七二〇)の武蔵等五か国の東国兵による鎮撫行動、第三回は、神亀元年(七二四)三月の陸奥の蝦夷反乱に対する軍事行動、第四回は、天平九年(七三七)の鎮東将軍大野東人(おおののあずまひと)による本格的征討行動であった。こうした征夷に対し、坂東諸国は、表7のような兵員・軍需物資の徴発を強制され、宝亀五年(七七四)以降蝦夷の反乱が激化すると、その負担も年々過重になった。桓武天皇の時には平安京遷都と征夷が二大事業に挙げられ、前後三回にわたって征夷が実施された。特に、延暦八年(七八九)の北上川の戦いでは、武蔵国入間郡出身で征東副使となっていた入間広成(いるまのひろなり)や下総国猨嶋郡出身の安倍猨嶋臣墨縄(あべさしまおみすみただ)など東国出身の武将たちが、胆沢(いざわ)の族長大墓公阿弓流為(たものきみあてるい)との決戦を避けて渡河部隊を見殺しにし、大敗してしまった。この後、同二十年坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が四万の兵をもって辛うじて平定に成功したのである。県内にもこの時、坂上田村麻呂が征夷の祈願をしたとの伝承をもつ社寺が多数ある。
政府は、蝦夷の軍事的制圧と共に、帰服してきた蝦夷の教化政策をも進め、それらを俘囚(ふしゅう)と称し、内国各地に移住させ公民化を図った。俘囚の内国移住は八世紀前半から行なわれていたが、九世紀に入ると多数の蝦夷が強制的に各地へ移された。政府はその俘囚保護の費用として「俘囚稲」と称する経費を計上させた。その国数は全国六八か国中三五か国に達し、その内二万束以上の俘囚稲を掲げる国々を列挙したのが表8である。これによると九州と坂東に多いことがわかり、地理的に遠隔の地と隣接の地に分散した様子がうかがえる。しかし、俘囚の公民化は困難を伴い、九世紀半ぱ以降、上総・下総・出羽などで俘囚の反乱が集中的に起こり、坂東の治安悪化の原因になった。
表7 征夷のため武蔵等の国より徴発した兵員・物資一覧
年号 西曆 被徴発国 徴発先 徴発兵員・軍需物資 
和銅2年 709 諸国 出羽柵 兵器 
天平9年 737 武蔵・下総等6国 陸奥 騎兵1000人 
天平宝字2年 758 坂東8国 騎兵・鎮兵・役夫
8180人 
 〃  3年 759 武蔵・下総等7国 雄勝
桃生城  
軍士器仗 
宝亀6年 775 武蔵等4国 出羽 鎮兵996人
 〃8年 777 武蔵・下総等5国 出羽 甲200領 
 〃11年 780 東海・東山諸国 陸奥 坂東兵士
襖4000領
 〃 〃 坂東諸国・能登等3国 糠3万斛 
天応元年 781 武蔵・下総等6国 陸奥 穀10万斛 
延暦7年 788 東海・東山・北陸 陸奥 
糖5万8000斛 
 〃 〃 東海・東山・坂東諸国 陸奥
多賀城 
歩騎5万2800余人 
延暦9年 790 東海・東山 糖14万斛・革甲2000領 
延暦10年 791 諸国 鉄甲3000領 
 〃 〃 東海・東山諸国 征箭
3万4500余具  
 〃 〃 坂東諸国 糖12万斛 
延暦23年 804 武蔵・下総等7国 中山柵 糖1万4315斛
米9685斛
元慶2年 878 武蔵・下総等11国 出羽 兵士29人 
表8 2万束以上の俘囚稲
国名 俘囚稲 
1 肥後 173千435束 
2 近江 105. 000 
3 常陸 100. 000 
4 下野 100. 000 
5 播磨 75. 000 
6 筑前 57. 000 
7 甲斐 50. 000 
8 筑後 44 . 082 
9 美濃 41.000 
10 豊後 39. 370 
11 土佐 32. 000 
12 武蔵 30. 000 
13 相模 28. 600 
14 上総 25. 000 
15 下総 20. 000 
16 伊予 20. 000 

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