北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第3節 地方豪族の成長

東国の村
市域にかかわる農民生活の姿については文献面からは資料が乏しく、明らかにすることはむずかしい。しかし、近年は遺跡の発掘調査が精力的に行われ、遺跡と遺物から当時の状況をかなり復元できるようになった。これについては第三章第四節の「集落跡と農民生活」で紹介する。
ここでは養老五年(七二一)作成の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」(正倉院文書)によって行政的に把握された東国の状況をみてみたい。大嶋郷は、後に武蔵国に編入された中川と江戸川(当時の太日川)のデルタ地帯にあり、現在の東京都葛飾区柴又(しばまた)・小岩を中心とする一帯の地に比定され、鳰鳥(にほどり)が飛び交い、葛飾早稲(かつしかわせ)の実る豊かな穀倉地帯であった(『万葉集』)。この戸籍は奈良時代の東国の村落構成を示す数少ない例であるが、それによって当時の市域周辺に存在した郷についても、その構造や、編戸の状況等を窺(うかが)うことができよう。

写真8 下総国葛飾郡大嶋郷戸籍 正倉院宝物

(浦和市行政資料室提供)

同戸籍によると大嶋郷は、甲和(こうわ)・仲村・嶋俣(しままた)の三里からなり、「甲和里」は東京都江戸川区小岩または葛飾区水元小合町(みずもとこあいちょう)に、「仲村里」は葛飾区新宿(にいじゅく)三丁目付近または水元小合町の中村に、「嶋俣里」は葛飾区柴又にそれぞれ比定されている。表9で示すように戸数(房戸(ぼうこ))は四四、四四、四二の合計一三〇戸でほぼ均等数で構成され、房戸のおよそ二戸か三戸で一郷戸(ごうこ)を構成していたことがわかる。その郷戸数も一七、一六、一七と均等化され、合計は五〇戸と令制の規定に合致する。すなわち国-郡-郷-里(保)-郷戸-房戸ときわめて整然とした村落構成をなしていた。これは自然村落のあり方とは異なり、編戸が行政的に行われたことを示している。


郷里名 郷戸数 房戸数 戸口総数不課口数課口数郷戸
(房口)
平均口数
一郷戸
(房口)
平均課口数
甲和里 17 44 45418926534411026.7
(10.3)
6.4
(2.5)
仲村里 16 44 36415521225511222.9
(8.3)
7.0
(2.5)
嶋俣里 17 42 37016520526810221.7
(8.8)
6.4
(2.4)
大嶋郷
(計) 
50 1301,19150968286732423.8
(9.1)
6.4
(2.6)
そのため郷里制に基づき、郷には郷長(従来の里長)、里には里正が置かれ、大嶋郷では郷長孔王部(あなほべ)志己夫(五八歳)の下に、甲和里には里正孔王部荒馬、仲村里には里正孔王部塩、岭俣里には里正孔王部小刀良が配され、村落支配の徹底がはかられた。そして郷戸を単位として調庸(ちょうよう)の賦課収取、雑徭(ぞうよう)、兵士役、雇役(こえき)の徴発および義倉の負担を国家から強いられ、房戸はそれらの収取・徴発負担の末端単位としての役割を担われていた。
戸口構成は、郷全体で五〇郷戸一一九一名、一郷戸平均口数は二四人弱となっている。
郷戸と房戸の戸口数は区々で、郷戸は四人から四二人で平均二三.八人、房戸は二人から一八人で平均九. 一人である。断片的な記載からではあるが、房戸主の兄弟あるいは従父(じゅうふ)兄弟である場合が多く、血縁的に近いものが郷戸を構成していたようである。また、奴婢(ぬひ)は他国の戸籍に比べ著しく少なく、残存資料からは奴婢は九人(奴三人・婢六人)、寄ロ(きこう) (戸主と非血縁の同居者)は三人となつている。一般に奴婢の人ロ比率は階級分化の発展度の高いところほど高率といわれ、美濃国肩々里では四三パーセント、国造大庭の戸においては六四パーセントにも達しており、大嶋郷と全く対照的なのが注目される。
次に氏族構成を見ると、姓の明らかなもの七三戸中に六八戸が安康(あんこう)天皇の名代(なしろ)である孔王部(あなほべ)姓を名乗っており、他は私部(きさいべ)姓四、刑部(おさかべ)姓一のみである。おそらく郷内の九〇パーセント近くが孔王部姓であったと思われ、村落ぐるみ名代として設置されていて天皇家による集団的支配の伝統を残していた。他姓の者は結婚によるものと思われ、通婚範囲は郷内に限らず他郷にも開かれていたようだが、概していえば血縁集落的性格が強かったといえる。なお断簡ではあるが、下総国針托郡(香取)少幡郷の戸籍では壬生(みぶ)部、同国倉麻(そうま)郡(相馬)意布郷戸籍では藤原部の姓が主となっているのもそのことを裏付けている。
当時の住居は、大部分が縄文時代以来の竪穴住居で、万葉歌人山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」に詠(うた)われた「伏廬(ふせいお)の、曲廬(まげいお)の内に、直土(ひたつち)に、藁(わら)解き敷きて」の状態に近いものであった。
竪穴住居の構造は古墳時代とほぼ同様で、床は地面から掘り下げられ、その上に藁や干草を敷いて寝所としていた。住居内の東側か北側には、人々が日々の食事の煮炊きに使用した竃(かまど)が設けられており、その煙は直接住居の外側に出るような構造になっていた。竃近くには貯蔵穴が掘られ、食糧が蓄えられ、一棟の居住人口は平均すると五人から六人と推定されているから、大嶋郷に見られるような二〇人をこえる大家族は、いくつかの竪穴住居(房戸)に分かれて暮らしていたものと思われる。
当時の住居跡からは、鉄製の鎌や鍬先が出土するが、これは八世紀末ごろから一般農民にも鉄製農具が普及していたことをうかがわせる。また、農具とともに、石製・土製・鉄製の紡錘車(ぼうすいしゃ)の出土も見られるが、これは麻などからとった植物繊維に撚(よ)りをかけ糸としての強度を増すとともに、その太さを一定にするためのはずみ車として使用されたものである。
当時の主要な生産物は水田の米や畑作物などの農作物であったが、その他に各地の特産物もあらわれてきて、交易も行われていた。武蔵国の特産物については、『延喜式(えんぎしき)』でその概要を知ることができるが、多種多用の産物が記載されている。こうした特産物の出現は、当時の人々が農業を中心とする自給自足の生活を基本としながらも、一部においては手工業を中心とする分業化・専業化が進行していたことを示しているものといえよう。

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