北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第1節 律令制の崩壊と治安の悪化

武蔵の治安悪化
十世紀以降の我が国は、中央集権的国家体制の公地公民支配が崩壊し、代わって律令制の地方官である国司に任された新しい政治支配体制-王朝国家体制へと移行していった。この結果、徴税請負人化した国司の苛政(かせい)は、必然的に諸国農民の激しい抵抗を招き、全国各地で国司に対する抵抗運動が生じた。
その動きは坂東において顕著で、「東国の乱」と称された九世紀末以降、坂東諸国に断続的に継起した群盗蜂起(ほうき)は武蔵国から始まったと考えてよい。武蔵では貞観(じょうがん)三年(八六一)以前から群盗が山野に満つるほど蜂起し、騒然たる様相を呈していた。このため国別一人設置が原則とされていた国検非違使(けびいし)が、武蔵国では郡毎に一人ずつ置かれる治安状態であった(古代・中世№二七)。この検非違使には、武力をもつ在地豪族層や郡領から選任される例が多かった。彼等は時により国衙(こくが)に反抗する群盗のリーダーとなったため、国司はこれら地方武力を体制内に吸収し、古代国家の治安維持機構としようとした。これが反面では在地豪族の武装化・武士化を国衙側が公認することになり、地方土豪の武士化を促す要因となった。
こうして国衙の警察権の強化を図ったが、武蔵の治安悪化は一向におさまらなかった。貞観十五年(八七三)には、大宰府で貢綿掠取(りゃくしゅ)の嫌疑(けんぎ)で武蔵など三国に配されていた新羅人のうち、武蔵国に遷(うつ)されていた金連など五人中三人が逃亡し、政府は全国にその捜捕を命じるなど、武蔵国衙の治安の弱体化が露呈された。また、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』寛平(かんぴょう)元年(八八九)四月二十七日条には、東国群盗の首、物部氏永(もののべうじなが)らの追捕(ついぶ)には、昌泰(しょうたい)年間(八九八—九〇一)に及ぶ一〇年余の歳月を費やしたとある。氏永は強盗の首とあるから群盗のリーダ—であり、追捕に一〇年を要したとあるから後述の僦馬(しゅうば)の党に似た機動性をもつ群盗であったに違いない。氏永については武蔵国造物部氏の一族とする考えもある。
こうした群盗の正体は、世にいう野盗や強盗の類ではなく、坂東の有勢者を中心とした反国衙・反国家的武装集団で、各地に澎湃(ほうばい)として起った。昌泰(しょうたい)二年(八九九)九月十九日の太政官符(古代・中世№二八)によると、このころ武蔵の隣国である上野国でも群盗が蜂起(ほうき)し、京都へ送る官物を略奪(りゃくだつ)して甚大な損害を与えていた。その群盗の中心は「僦馬の党」という集団的に組織された「坂東諸国富豪の輩」であった。彼らは「駄を以って物を運ぶ」運輸業者であり、政府を悩ませていた蝦夷地(えぞち)に対する軍糧や兵器の輸送、貢納物の京進業務に携(たずさ)わっていた。これは王朝政府の支配体制を維持する生命線であったが、僦馬の党は「山道(東山道)の駄を盗み、以って海道(東海道)につき、海道の馬を掠(かす)めて以って山道に赴(おもむ)く、爰(ここ)に一疋の鴛(ど)に依って百姓の命を害し、遂に群盗を結びて既に凶賊となる」という状態であった。
政府は、昌泰二年に相模国足柄と上野国碓氷(うすい)に関を設け、本格的な取締まりに乗り出したがさしたる効果はなかった。『扶桑略記』同三年条には「是歳(このとし)、武蔵国の強盗蜂起す」とあり、『日本紀略』同四年二月十五日条にも「諸社に奉幣して、東国群盗の事を祈る」とあり、さらに『扶桑略記』裏書の同日条(古代・中世№二九)にも「諸社に奉幣す、去る寛平(かんぴょう)七年より坂東の群盗発向す、その内信乃(信濃)・上野・甲斐・武蔵、尤もその害あり、御祈りなり」とあって、群盗蜂起はますます甚しくなっていた様子を伝えている。政府はこれら一連の騒乱—東国の乱に対して、諸社に奉幣して騒乱鎮定を祈ることに力を傾け、一方で推問追捕使(すいもんついぶし)を派遣して事件解決に当たらせたが、見るべき効果はなく、武蔵や上野ではさらに国衙内の国司の間で対立抗争が生じていた。

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