北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第3節 古代末期の争乱と武蔵武士

平忠常の乱とその影響
平忠常は忠頼の子で、前上総介または下総権介ともいわれ、本拠地は明らかでないが、多分武総地域 を根拠地としていたのであろう。子孫の千葉氏が相馬郡に所領をもっていたのは、祖父良文や父忠頼の遺領を継承したものと思われる。忠常は万寿(まんじゅ)四年(一〇二七)ごろから猛威を振って坂東の受領を凌ぎ、翌長元(ちょうげん)元年(一〇二八)には上総国府を襲擊し、安房国衙をも侵略して国守惟忠を殺害した(「源頼信告文」)というから、明らかに在地土豪による反国衙闘争であった。
その年六月、忠常の叛乱の報が京に達すると、朝廷では直ちに追討を評議した。追討使には兵名の高い伊勢前守源頼信を推す声が高かったが、案に相違し選任されたのは検非違使(けびいし)右衛門少尉(しょうじょう)平直方と、同少志(さかん)中原成通の二人であった(古代・中世№三六)。平直方は桓武平氏の嫡流として相模・伊豆方面に地盤をもっており、良文流平氏と競合状態にあった。したがって直方と忠常との対立は不可避であり、直方は忠常追討を機に一族の坂東における支配権を強固にしたいという打算があったらしい。加えて直方の父維時(これとき)も長元二年(一〇二九)に上総介に任命され、父子協力して忠常に当たる体制にあった。

図2 桓武平氏略系図

八月五日追討使平直方、中原成通は従兵二〇〇余人を率いて進発した。しかし直方と成通は進発以前から仲が悪く、これが乱の鎮定を遅延させる結果を招き、一年余を経ても忠常を討伐できなかった。忠常としても直方に征討されるのは潔しとせず、徹底抗戦を構えていた。長元二年(一〇二九)六月、政府は三たび諸国に忠常追討の官符を下したが効なく、十二月八日、中原成通を解任し、追討は一層直方対忠常の私戦という色合いを濃くした。この間、坂東諸国に対する兵士、武器、食糧の調達は大量に上ったようで、坂東諸国の負担は著しかった。
忠常はますます勢いを拡大させ、同三年に入ると安房国に侵入、安房国衙を襲った。国守藤原光業(みつなり)は、京に逃げ帰り、代わって貞盛系平氏の平正輔が後任の守となったが、平致経(ともつね)(良兼の子孫)との私闘で安房に赴任できなかった。
かくて貞盛流平氏による忠常追討作戦は失敗に帰し、政府も同年九月、直方を召還した。代わって源頼信(よりのぶ)(前年甲斐守に補任)を起用し、坂東の諸国司と共に忠常追討を命じた(古代・中世№三七)。頼信が征討準備を整えて忠常の子の法師を伴い嫡子頼義(よりよし)と追討に出発しようとした時、忠常が二人の子と三人の郎党を伴い帰降してきた。頼信はこれを許し忠常等を帰順させた。乱が京に通報されてから鎮圧まで四年間を費やしたのに対し、頼信は一兵も動かさずに平定し、まことにあっけない幕切れであった。これは頼信の武名と、忠常との私的主従関係、および頼信が忠常・直方の私的対抗関係の埒外にいたことによると思われる。
しかし、乱を終息させた主な原因は、この乱のために房総三国が亡弊(窮乏の意)の極に達し、忠常らがもはや争闘を継続できなかった在地の経済的事情にあった(古代・中世№三八)。
この乱の結果、源氏の武名は一層高まり、当初、坂東進出を企てた貞盛流平氏の野望は挫折し、源氏が坂東武者との人格的結合を深め、後に続く前九年・後三年両役の克服を通じて、頼信・頼義・義家(よしいえ)の三代にわたって、坂東武士との間に強い人格的主従関係を形成し、坂東における源氏の優位を決定づけることになった。

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