北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第3節 古代末期の争乱と武蔵武士

武蔵の武士団
将門(まさかど)の乱前後、関東では在地領主層の間に勢力交替が起こり、九世紀以降政治的、経済的矛盾の克服として、在地豪族の領主化が促進された。武蔵国でも十世紀から十一・十二世紀にかけて各地に中小武士団が続出した。
これら中小武士団の系譜は、そのほとんどが源・平・藤の三流に属し、これに三流を除いた国司の後裔と、国造に系譜を引く在地豪族層が加わる。しかもその多くは平安初・中期に地方へ下向し、土着した氏族であった。源氏は嵯峨系箕田氏を除いては見当たらず、清和(せいわ)源氏の進出は十一世紀を待たねばならなかった。これに対し、桓武(かんむ)平氏(坂東平氏)は圧倒的に多く、県内では秩父氏一統を中心に各地に蟠居(ばんきょ)し、藤原氏では秀郷(ひでさと)流の太田氏・比企氏、利仁(としひと)流の斎藤氏、勧修寺(かじゆうじ)もしくは魚名(うおな)流の足立氏などがいた。
坂東八平氏と秩父氏
坂東八平氏は図3に見られるように、秩父・土肥・上総・千葉(良文系)、三浦・大庭・梶原・長田(良茂系)の八氏をさし、いずれも桓武天皇の系譜をひく皇親系豪族である。彼らが坂東諸国に勢力を張ったのは、桓武の曽孫高望王(たかもちおう)が、寛平(かんぴょう)二年(八九〇)平姓を賜って臣籍降下し、軍事貴族として上総介に任ぜられ、上総の俘囚(ふしゅう)を鎮圧してからである。王は桓武の曽孫という貴種としての出自を背景に、在地有力土豪の女と婚姻関係を結び、大きな勢力を張っていった。その子の国香(くにか)・良兼(よしかね)・良将(よしまさ)・良広・良文(よしぶみ)・良持・良茂(よしもち)等も、父や母方の勢威を背景に常陸・上総・下総・安房・相模・武蔵・下野を舞台に、雑任国司(ぞうにんこくし)や、押領使(おうりょうし)・追捕使(ついぶし)・陸奥鎮守府将軍(むつちんじゅふしょうぐん)として文武の官を歴任し、勢力を振るったことは前に述べたとおりである。
坂東八平氏中、県内に本拠を持ち、大きな勢力を振るったのは秩父氏である。

図3 坂東八平氏・秩父氏略系図

秩父氏は村岡次郎忠頼から出て、その子将常が武蔵権守となり、秩父郡中村郷(秩父市)に本拠を定め、秩父氏を称したことから始まる。将常の子武基は秩父牧の別当(べっとう)職を保有し、牧馬の監察を通して領主制の拡大を図ったのであろう。彼は国司に対して必ずしも忠実ではなく、康治(こうじ)二年(一一四三)に謀反により佐渡国に流罪となっているが(「千葉上総系図」)、おそらく秩父牧管理の上で反国衙の動きがあったためであろう。秩父郡吉田町下吉田には武基が開いたと伝える「秩父氏館」があり、遺跡内には、後裔(こうえい)の畠山重忠が武基の子武綱の守護神を勧請(かんじょう)したと伝える若宮八幡宮が鎮座している(『若宮八幡宮縁起』)。
武綱は豪勇の士として知られ、後三年の役(一〇五一〜六二)に源義家(よしいえ)の麾下(きか)として従軍し、奥州清原氏の討伐に軍功を挙げ義家から賞として先陣の白旗を賜ったという。従って、武網は祖父将常の代から秩父郡に土着し、武基・武綱の代にかけて秩父牧を基盤に、郡下における領主権を強固にし武士化したのであろう。その子重綱は出羽権守、武蔵国留守所総検校(けんぎょう)職となり、国衙の有力在庁官人となった。総検校職はどうした事情によってか、その後重綱の長男の重弘にではなく、次男の重隆(河越氏系)の手に移り、能隆・重頼と相承されていった。これに反発して重弘の子畠山重能が、久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五)八月、一族の秩父重隆とその養君源義賢との連合軍に対する源義平との大蔵合戦において、義平側につき重隆討伐の一翼を担ったことは先述のとおりである。
秩父一族は、子孫繁衍(はんえん)して、嫡流家の畠山氏をはじめ、葛西・豊島・河越・江戸等の有力諸氏に分かれ、秩父郡を中心に、大里・入間・豊島の諸郡から下総・相模国等にまで及んだ。
武蔵七党
平安末期に坂東八平氏と共に県内で大きな勢力を振っていた武士団に武蔵七党がある。通常武蔵七党と称するものは「武蔵七党系図」に従って横山・猪俣・野与(のよ)・村山・児玉・丹(たん)・西の諸党をさすといわれるが、一説には野与の代わりに私市(きさい)を入れたり、あるいは村山、西の代わりに綴、私市を入れる場合等があって一定せず、適当に七つの武士団を組合せて七党と称していたにすぎない。武蔵国には豪族的領主層は存在せず、武蔵七党と呼ばれた背景には血縁集団を紐帯(ちゅうたい)とする党的結合を中核とした比較的中小規模の武士団が各地に多数割拠していたことを示している。
ところで党とは、同系の家から分かれた数十の小支族が、それぞれ独立性を保持しながら同族的結合を作り、武士団としての協同体制をとっていたものをさす。党の存在形態は時と所により区々だが、武蔵七党の場合は十二世紀初頭横山党が二十数名の同族的在地領主層の軍事的連合によって構成されていた武士団であったように、相互に独立性を保持していた同族結合であった。党結合の基本である同族とは、共通の祖先から分脈した血縁的分家のみでない。各党の結成当初は一族の血縁性は保たれたであろうが、時日の経過とともに異族が参加し、複雑化していった。小野氏である横山党に藤氏を称する糟屋(かすや)氏、別府氏がいたり、有道姓の児玉党に藤姓の小代氏がいたりするのはその例である。異族が新たに参加した場合は隸属(れいぞく)的加入でなく、対等の武士団として参加したのでその上下関係は一層不明瞭となり、各支族の独立性は温存されていった。武蔵七党の各支族は本来の氏名を継承することなく、それぞれ居住地名をとって苗字とした。このため苗字を見ると各党の子孫がどのように繁衍(はんえん)し、どの地域に勢力分布を示したかがわかる。各支族は、分家を立てる際未墾地を開発して私領とし、その私領の占有権を公示するため、所領地名をとって自己の苗字とした。このように苗字は自然発生的で、人為的ではなく、また所領に対する領主権も一族惣領(そうりょう)の家から規制されることなく、この面からも独立性は保たれていた。
また、各党は同族結合の確認と強化のために共通の祖神を祭って党結合の中心となし、児玉党は有氏(ありうじ)神社、丹党は丹生神社、野与(のよ)党は久伊豆(ひさいず)神社を奉斎(ほうさい)した。この際党の氏神として共通の祖先神を祭るのが自然であるが、必ずしもそうともいえず、七党の例ではないが、河越氏は河越荘の領主新日吉(いまひえ)神社を尊崇しており、畠山氏は源氏の氏神八幡神を秩父郡吉田町に勧請して若宮八幡宮と命名し奉斎していた。
武蔵七党はいずれも中央から下向した国司の子孫と称し、野与・村山党は桓武天皇の後裔(こうえい)武蔵守平良文から、横山・猪俣党は参議小野篁(たかむら)の後裔小野氏から、丹党は武蔵守丹治比(たじひ)氏から、児玉党は関白藤原氏の家司(けいし)で後に武蔵介となった有道維能から、西党は武蔵守日奉(ひまつり)宗頼から、私市は武蔵権守私市家盛からそれぞれ出たと伝えられている。この信憑性(しんぴょうせい)については系図以外に拠(よ)るべき資料も乏しく、また系図には前述の如き多数の問題点を孕(はら)み確言は困難だが、中には児玉行重が秩父重綱の養子となって秩父氏を称したように、下向貴族と姻縁関係を結んでその子孫と号したものもあり、また当時の在地土豪のもっていた一般的傾向たる貴族性への憧憬(しょうけい)から擬制同族化し、その後裔と称したものもあって、その系譜を複雑化している。
在地豪族の武士化
次に国造の系譜を引く在地豪族の武士化の例を大宮市氷川神社の社人の例で見てみよう。氷川神社は延喜式(えんぎしき)内の名神大社で、貞観(じょうがん)年間(八五九〜七七)以降数度にわたり進階に与(あずか)った当国きっての大社であった。同社は歴代武蔵国造家が奉斎(ほうさい)を行い、承平(じょうへい)年間(九三一〜三八)には武蔵武芝(たけしば)が社務を執行していた。武芝は足立郡司判官代として律令官人に属し、それでいて多分に族長的色彩を強く残した稀にみる名郡司と賞讃されてきたが、承平八年(九三八)二月武蔵権守興世王(おきよおう)・介源経基との間に紛争を生じ、これが原因で郡家を退き、氷川祭事にも与らなかった。以後足立郡司と氷川社務は、武芝の女婿菅原氏の手に引き継がれていった。
菅原氏は武芝の遺跡を継承して氷川祭祀権を留保しつつ、在地領主性を強め、武士化を進めた。郡司行範の子の行基は無双の精兵(せいびょう)といわれ、康平(こうへい)年中の源頼義の奥州合戦(前九年の役)には頼義配下として従軍し殊功を挙げたという。その子行英も梅原荘司となって在地領主化していった。
氷川社人の武士化をさらに積極的に促進した要因は、他の有力在地領主層との婚姻関係の強化であった。たとえば武芝女は秩父将常(武蔵守・秩父氏祖)に嫁し、行基の孫女三人のうち二人が、児玉党の吉島三郎大夫有道行造、同片山金次郎行時に嫁す等、秩父氏や児玉党の如き有力武士との関係を緊密にしていた。
氷川社人の武士団の構造は史料がなく窺(うかが)うべくもないが、十二世紀ごろは地理的に近似な中級武士団の首長足立遠元に従い、小武士団を形成していたのではないかと推定される。

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