北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第4節 農民のくらしと信仰

集落跡と農民生活
九世紀後半の京都では、内裏から朱雀(すざく)大路がまっすぐにのび、大路の左右も道路を碁盤の目状に設け、正方形に区切った人工都市での生活が定着していた。寝殿造りの建物の中では、貴族達が華やかな生活を繰り広げる一方、一般人も掘立柱(ほったてばしら)の家での生活にすっかり馴染(なじ)んでいた。おなじころ市域では、縄文時代と変わらぬ竪穴住居を中心とした生活を営んでいた。市域で発掘調査した平安時代の遺跡は、高尾の宮岡Ⅰ遺跡(原始P三六〇)、石戸宿の市場Ⅰ遺跡・八重塚遺跡(原始P四四七)の三遺跡である。
宮岡Ⅰ遺跡は、三方を谷で囲まれ西に向かって突出した舌状台地の付け根付近で、住居跡を一軒調査している。八重塚遺跡D区も、西方へ突出した台地の先端部に位置している。やはり、住居跡を一軒調査している。市場Ⅰ遺跡、東から西へ荒川へ向かって開析された谷を見おろす南側斜面に位置する遺跡である。平成三年(一九九一)九月と同四年四月に調査された。調査区内には六軒住居跡が所在することを確認し、内三軒を完掘している。データが未整理で、平均的な農民像が浮かびあがらないが、三遺跡での生活の一端を垣間(かいま)見よう。

写真14 市場Ⅰ遺跡の景観

生活した場所から見たとき、宮岡Ⅰ遺跡は、舌状台地の付け根に近く、遺物の散布状態から見ても、集落の主体はもっと西側の台地先端部寄りであろう。まとまった軒数からなる集落となりそうである。普通集落は台地上の平坦部に営まれる。ところが市場Ⅰ遺跡は斜面部に位置していた。台地上が広いにもかかわらず、南斜面に占地したのは、北風を防いでいるのかもしれない。また、かなり水辺の近くまで住居を設けていたことからすれば、台地下に湧水があり、水の便の良さを採っているのかも知れない。あるいは台地上での畑作よりも、台地下の湿地での水稲耕作に重点を置いての占地だったのだろうか。いずれにしても特異な立地である。八重塚遺跡D区は、住居跡は調査した一軒だけであった。台地のほほ全域を調査したにもかかわらず、広い台地の西端に一軒のみである。普通住居が一軒だけ営まれているのは、製鉄・鍛冶(かじ)・牧(まき)の管理・堂守・墓守などの技術集団や特別な役割を担った住居と理解されている。宮岡Ⅰ遺跡の住居跡の近くに他の住居跡が見つからない場合や、八重塚遺跡D区の住居跡は、通常の住居ではなかったと考えておきたい。
住居は、いずれも竪穴式住居で、竃(かまど)を付設している。宮岡Ⅰ遺跡と八重塚遺跡D区の住居跡の面積は、一五~一六平方メートル、およそ一〇畳程度の小さめの住居跡であった。住んでいたのは四人位、両親と子供といった今日と変わらぬ核家族を想定してよさそうだ。ところが、市場Ⅰ遺跡の住居跡はさらに小型で、面積は一〇平方メートル前後、六畳ほどである。未掘に終わった残りの三軒も同規模で、市場Ⅰ遺跡はすべて極小の住居で集落を形成していたのである。
住居のなかからは土師器や須恵器などの日常什器(じゅうき)が出土している。その産地は比企地方で生産されたものや、その他の地域で生産されたものも含んでおり、各地との交流があったことが証される。市場Ⅰ遺跡からは、須恵器の平瓶(ひらか)が出土している。小型で、周辺地域の集落跡に例がなく、珍しい出土である。八重塚遺跡D区からは刀子(とうす)(ナイフ)が出土し、市場Ⅰ遺跡からも刀子と鋤先が出土している。かなり鉄製品が普及していたことを窺うことができる。一

写真15 須恵器平瓶

市場Ⅰ遺跡

写真16 鋤先

市場Ⅰ遺跡

写真17 須恵器墨書坏

市場Ⅰ遺跡

市場Ⅰ遺跡から出土した須恵器の中の坏(つき)二点に、墨書文字が残っていた。墨が薄い部分もあるが一点は坏の側面に「子和田」とあり、他の一点は「東」と墨書されている。市域で最古の文字であり、字を読み書きできる人が確実にいたのである。奈良時代以降文字が普及して、土器に地名や人名や吉祥句(きっしょうく)などを書き込むようになり、平安時代にはたくさんの遺跡で出土するようになる。九世紀後半には律令制が崩れてきているとはいえ、租・庸(よう)・調・雑徭(ぞうよう)といったきびしい税がかけられていた。雑徭として国司や郡司に労役にかりだされたり、遠く都へ労役に出かけたりしたが、都で労役の合間に文字を習得したことが想像される。

写真18 ヒシとモモの炭化種子

市場Ⅰ遺跡

市場Ⅰ遺跡一号住居跡から炭化した植物種子を検出した。ヒシ・モモ・不明種の三種類である。ヒシはオニビシであろう。出土個体数が多く、食用のために採集したものである。遺跡直下の沼地に生育していたものと推定する。モモは一点のみの出土で、専門家による同定を経なければ正確には分からないが、上手遺跡(原始P五九八)の古墳時代の住居跡から検出した炭化種子が、コダイモモと同定されているので、市場Ⅰ遺跡の種子もコダイモモの可能性が高い。『古事記』の伊弉諾命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃れるおり、桃の実を三つ取って黄泉醜女(よもつしこめ)に投げつけて逃れることができた話から、「桃には霊力がある」という道教を源とした思想が古墳時代に日本へ伝わっていたという。また『万葉集』にうたい込まれているモモは、ヤマモモとケモモで、奈良時代に単にモモといえばヤマモモのことであり、現在のモモがケモモであり、ケモモは食用ではなかったのではないかという見解もある(前川文夫『日本人と植物』)。しかし、大宮市の古墳時代の遺跡例では、一軒の住居跡から三〇点近いモモの種が出土しており、食用としたことがうかがえる。市場Ⅰ遺跡の桃も、桃の霊力という信仰より、食用と考えてよいと思われる。
ヒシは通常ならば秋に収穫する。住居の廃棄は、あるいは初冬のことであったろうか。

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