北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第4節 農民のくらしと信仰

古代創建の寺院と神社
寺  院   我国への仏教伝来は、「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)并流記資財帳」等によると欽明(きんめい)天皇十三年(五五二)のこととされるが、それ以前から朝鮮半島の渡来人が仏教を伝え、彼らの間で信仰が保たれていたという。仏教受容に当たり中央では、有力豪族蘇我(そが)氏と物部氏の間で激しい争いが起こり、崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏の勝利により受容が確定化された。やがて用明(ようめい)天皇の崇仏表明、推古(すいこ)二年(五九四)の仏教興隆の詔(みことのり)発布、さらに聖徳太子の崇仏活動により、諸氏族も仏教を受け入れて寺院を建立し、仏教は著しい普及をみるに至った。これが地方へ大々的に弘布されるようになったのは、聖武(しょうむ)天皇の天平十三年(七四一)の国分寺/
国分尼寺造立の詔を契機としてである。
武蔵国分寺は現在の東京都国分寺市に創建され、各郡の造立参加は貢納瓦銘からも明らかである。これと前後して北武蔵においても有力豪族を中心として古代寺院の造立が行われ、その寺院とみられる一六か寺から古瓦や礎石・土器等の遺物が確認されている。その早い例には七世紀中ごろの創建と推定される比企郡滑川(なめがわ)町寺谷(てらやつ)廃寺跡が認められているが、その多くは国分寺造立前後の時期に集中している。また、最近の発掘調査の成果によれば、大里郡江南町の字寺内から東西五町、南北五町にわたる八世紀から十一世紀にかけての大規模な寺院跡が検出され、「花寺」「石井寺」「上院」「東院」等と墨書された土器も発見されている。この地は古代に男衾郡に属し、史上著名な在地富豪男衾郡司壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)の活躍期と重なることから、同氏と係わる定額寺と推考する説もある。
北足立郡において古代寺院跡として知られるのは、浦和市西部の大久保領家廃寺跡である。ここは古い荒川の自然堤防上に立地し、地蔵院あるいは比丘尼(びくに)堂の伝承名をもつ。明治期の開墾の際布目瓦を検出し、また道場からは古代を伴う蔵骨器(猿投(さなげ)焼)を検出し、近くの宿字宮前からも多量の布目瓦を出土しているので仏教普及に伴う古代寺院の存在を伝えている。
また、行田市埼玉の盛徳寺(じょうとくじ)境内から直径五〇センチメートル以上の礎石や布目瓦が多数出土し、寺域は東西一六〇メートル、南北一三六メートルと推定され、初期の瓦は八世紀第四四半期のものとされている(『行田市史』)。
隣市である桶川市川田谷の泉福寺(せんぷくじ)は、寺伝の縁起によると天長(てんちょう)六年(八二九)淳和(じゅんな)天皇の勅願によって慈覚大師円仁の開山と伝える天台の古刹(こさつ)である。当寺の名は、「東叡山勅願院円頓房泉福寺」と称し、天台宗総本山比叡山延暦寺に対し、東の叡山、東国における天台宗の中心地という意味を示している。近世には寛永寺が東叡山を号した。
古代東国の天台宗の教線拡大において比企郡都幾川(ときがわ)村慈光寺(じこうじ)の果たした役割は大きい。同寺は奈良時代末に鑑真(がんじん)の高弟とされる釈道忠(しゃくどうちゅう)によって開かれた名刹で、関東天台別院の一として大いに栄えたところである。やがて最澄の東国巡錫(じゅんしゃく)、円仁の来山によって一層の名声をはせ、東国天台の教線は一層拡大した。このことからか県内の古刹で慈覚大師を開山もしくは中興の祖とするものが多く、岩槻慈恩寺(じおんじ)、桶川泉福寺、川越喜多院(きたいん)・中院、同潅頂院(かんじょういん)、浦和吉祥寺(きちじょうじ)、神川大光普照寺(だいこうふしょうじ)等はその例であろう。そうした由緒(ゆいしょ)が泉福寺に鎌倉前期の文暦(ぶんりゃく)元年(一二三四)比叡山から信尊上人の入山となり、河田谷殿の外護のもとに寺運は興隆し、関東談林として英才を輩出し、人をして関東天台の祖山といわしめたのである。東叡山の山号はそれらに基づくものであろう。このような教線の影響は市域にも及んだと思われるが、残念ながらこの期の開山とされる寺院は見当たらない。
神  社   古代日本人の神観念は、自然崇拝に基づき、山川木石など万物に神がやどるとして八百万(やおよろず)の神を信仰していた。やがて稲作農耕が開始されると、農耕儀礼に伴う原始宗教へ転換し、共同体の生命を支える稲の豊穣(ほうじょう)(稲魂(いなだま))を祀(まつ)るニイナメ ・トシゴイの祭りが行われるようになった。祭祀場には榊(さかき)を招禱(おき)として立て、神霊の降臨を招く。榊等の樹木は神籬(ひもろぎ)と呼ばれ、それに銅鏡等の祭器をかけ、土器に神饌(しんせん)を盛った。祭祀場が固定化してくると恒久的な社殿がつくられる。神社の成立である。礼拝の対象は一般にカミと呼ばれ、土地の開拓神や国土守護神はウブスナ神・クニタマ神と呼ばれた。
古墳期以降、大和政権が支配地域を拡大し、やがて統一国家を形成していった。その過程で、農耕儀礼を中心とする原始神道は、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭祀する古代神道へと発展した。大和政権は大王(おおきみ)を高天原の天照大神の子孫とし、高天原に住む大和朝廷の神々を天神とし、従属した諸氏族の神を地祇(くにつかみ)と区別するなど、古代の神祗(じんぎ)制度を整えていった。
当時の全国の主要な神社は、『延喜式』の「神名帳(じんめいちょう)」に記され式内社(しきないしゃ)と呼ばれた。一方、「神名帳」に登載されない神社は式外社(しきげしゃ)といった。
「神名帳」登載の式内社は三一三二座で、官幣(かんぺい)大社三〇四(ー九八社)・官幣小社四三三(三七五社)・国幣(こくへい)大社一八八(一五五社)・国幣小社二二〇七(二一三社)座となる。座とは神座のことで、一社に二座以上祭祀する神社もあった。官・国幣社とも名神祭に与(あず)かる社を大社といい、これを名神大社と呼ぶ。式内社は、神祗官より祈年祭の幣帛(へいはく)奉幣に与かった。
武蔵国で「神名帳」に登載の神は、「四十四座 大二座小四二座」で、このうち氷川神社と金佐奈(かなさな)神社は大社とみえる。
足立郡では「四座 大一座小三座  足立神社  氷川神社 名神大月次新嘗(にいなめ)  調神社  多気比売神社」の四社である。足立神社の所在地は数説あるが、古代殖田(うえた)郷の大宮市植田谷本にある社が有力で、氷川神社は大宮市高鼻の氷川大社をさすと考えられる。調神社は浦和市岸町、多気比売神社は桶川市篠津にある社とすることに異論はない。これを古代の郷との関係で見ていくと、足立神社が殖田郷、氷川神社が郡家郷、調神社が大里郷、多気比売神社が稲直郷にあったと考えられ、各郷の開発の拠り所であったろう。
氷川神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだのひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)の三神で、いずれも出雲系の神々である。氷川本社は社記によると孝昭(こうしょう)天皇三年の創立と伝え、成務(せいむ)天皇の時代、无邪志国造(むさしくにのみやつこ)と兄多毛比命(えたもひのみこと)が出雲族を引き連れ土着したとあるが、伝承の域を出ない。八世紀には足立郡司丈部直氏(後の武蔵氏)が奉斎していた。
氷川神社が官幣社となったのは掩しゃく十七年(七九八)で、武蔵一の宮として尊崇された。そのため氷川祭祀圏は、武蔵国に多く分布し、今では埼玉県に一六二社、東京都に五九社、茨城県・栃木県各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一社があり、その多くは綾八瀬川(旧荒川)の西側から多摩川にかけての台地上に分布する。
氷川神社が神階を授けられたのは貞観(じょうがん)元年(八五九)で、従五位下から従五位上が授けられ、元慶(がんきょう)二年(八七八)には正四位下が授けられた。また、同社は天平神護(てんぴょうじんご)二年(七六六)に三戸の封戸(ふこ)を与えられた。市域にも四社の氷川社が祀られているが、いずれも後世の勧請(かんじょう)になるものである。

写真19 多気比売神社 桶川市

桶川市篠津に鎮座する多気比売神社の創建は、社伝によれば、安寧(あんねい)天皇の代とされ、武蔵国内では多摩市の小野神社とならんで古いといわれるが、信頼性は少ない。古くするのにはそれなりの理由があったろう。当社から西方へ三〇〇メートルの所に存在する後谷(うしろや)遺跡は、昭和六十二〜平成元年に調査され、縄文時代後・晩期の泥炭層(でいたんそう)遺跡として注目され、土偶(どぐう)、土版、耳飾り、土笛、独銘石(どっこいし)など多数の信仰呪術品(じゅじゅつひん)が出土した。またここには、「精進場」の地名もあって、古来から神聖な場所だったようであり、同社との関連も考えられる。
多気比売神社の祭神は、豊葦健姫命(とよあしたけひめのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)であり、現在でも安産の神様としてひろく尊崇されている。多気は地名の多気と考えられ、伊勢国多気郷をはじめ大和・備中・常陸の国々にも見られ、本来は竹の当字とされている。古くはこの地に多く竹が叢生したのか、ちなみに篠津のシノも竹の一種である。現地は赤堀川に臨んでおり、加納と篠津の間に広がる低湿地にタケならぬアシ野を見渡す篠津台地に立地している。東方約三〇〇メートルには元荒川も流れており、水運交通のうえからも地の利を得た所となっている。

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