北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第2節 平将門の乱と武蔵武芝

将門と武蔵武芝
天慶(てんぎょう)元年(九三八)春、武蔵国では権守興世王(ごんのかみおきよおう)・介源経基(すけみなもとつねもと)と足立郡司武蔵武芝(むさしたけしば)との間で紛争が起こった(古代・中世№三五)。興世王は桓武天皇の皇子伊予親王五世の孫といわれる皇親(『尊条脈』(そんぴぶんみゃく))で、権守として正任国守に代わり国務を代行する地位にあった。源経基は、清和天皇の孫で、武門の棟梁(とうりょう)清和源氏の祖とされるが、この時はまだ武道に練達していなかった。
武蔵武芝は、八世紀の奈良朝政府において活躍した武蔵宿禰不破麻呂(すくねふわまろ)の子孫と思われ(太田亮『姓氏家系大辞典』)、武蔵国の名神大社氷川神社の祭祀を管掌する在地名族であり(「西角井系図」)、かつ足立郡司のほか、判官代として国衙の在庁官人をもっとめていた族長的豪族であった。その人柄は『将門記』に、部内の人民を慈(いつく)しみ、よく統治して善政の評判高く、国府からも租税の未進や、納入遅延で咎(とが)めをうけたことのない名郡司であったとある。
『将門記』の国司と郡司に対する評価は全く対照的で、「国司は無道を宗とし、郡司は正理を力とす」と述べているが、軍記物語によくみられる誇張表現であろう
武蔵国内の紛争の発端は、同年二月、興世王と源経基が、部内巡視の名目で多数の従者を率い、足立郡内に無理に入部したことによる。彼らの狙いは郡司・百姓の富の収奪にあった。それを察した武芝は、入部を拒絶した。
果たせるかな興世王らは武芝の非礼を怒り、武芝の財物はもちろん、縁辺農民の租穀まで根こそぎ没収し、残余は検封して引き揚げた。この暴挙に国衙の書生(しょしょう)たちからも非難が起こり、国司と郡司の対立や国司の悪政が、国内全体に知れわたった。武芝は一旦は山野に身を隠したが、興世王らの暴挙を見て怒り、私財の返還を要求して私兵である従頰(じゅうるい)を召集した。
貞盛追討に失敗して下総にいた将門は、武蔵の国における国司と郡司の対立のうわさを聞いて、両者を調停するため、私兵を率いて武蔵に入った。武芝と武蔵国府に向かった将門は、自身が隣国の紛争に介入し、調停できると過信していた。
興世王は、将門に対し警戒心を捨てない介源経基を狭服山(さふくやま)に残して国府に入り、将門の仲介で杯を傾け、武芝と和議を結んだ。ところがどうした手違いか、武芝の私兵の一隊が経基の営所を囲んだため、経基は驚愕(きょうがく)して上京し、翌天慶二年(九三九)三月に将門の謀反を太政官に訴え出た。このころ、上京していた貞盛も将門の非行を訴えていた。政府は大いに驚き、推問使を遣わして事の実否を尋ねさせ、貞盛には、追討の官符を与え現地の国司と共に将門の行動を糾明(きゅうめい)させた。一方、将門の私君、太政大臣藤原忠平も実否を問う御教書(みぎょうしょ)を将門に届けた。将門は事の重大さを自覚し、常陸・下総・下野・上野・武蔵の五か国の解文(げぶみ)を得て無実を弁じ、事件は一応落着した。
政府は武蔵の不穏な情勢に対処して、同年五月、欠員の武蔵守に上総介であった百済王貞連(くだらのこきしさだつら)(貞運)を任命した。彼と権守興世王とは姻戚関係にあったにも拘(かかわ)らず、前述の事情があったため興世王を国務から疎外したので、興世王は深い恨みをいだき将門を頼った。このころ、将門の敵対者の伯父良兼が病死し、貞盛の立場は弱体化した。貞盛は陸奥に赴任しようとした平維扶を頼り、陸奥に逃避しようとしたが将門に妨害され、東国の山野に逼塞(ひっそく)した。将門の名声は東国にとどろいた。
一方、武蔵武芝は、この事件によって国守の不興をかったらしく失脚し、「西角井系図」によれば、父祖以来保有していた氷川神社の祭祀権も失ってしまったという。十世紀の反乱は、古代武蔵豪族の衰退を招いた。

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