北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第2節 平将門の乱と武蔵武芝

国家的反乱の敗北
天慶二年(九三九)の冬、将門は今度は常陸国の紛争に介入した。将門は、常陸国の乱人藤原玄明を義俠心(ぎきょうしん)から庇護(ひご)し、その引き渡しを要求する常陸介藤原維幾(これちか)と対立して国府を攻め、印鑰(いんやく)を奪い取った。印は国印であり鑰(かぎ)は正税稲を収納する正倉の鍵で、ともに国家権力の象徴であった。それを奪うことは国家に対する叛逆である。将門はこの時点で国家に対する叛逆者となった。加えて、興世王の「一国を討つといえどもその罪軽からず、同じくは坂東を併せ領せよ」(『将門記』)の献言を入れ、関八州虜掠(りょうりゃく)を企てて、上野・下野両国府を占拠し、印鑰を奪い国司を追放した。平氏一族の内紛から出発した私闘は、広汎(こうはん)な反国衙闘争に転換していった。

写真10 平将門坐像

茨城県岩井市 国王神社所蔵 (岩井市観光協会提供)

その後、将門は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神託を受けて新皇と称し、除目を行って、興世王や将門の兄弟たち、上兵らを関八州の国守に任命した。しかし、何故か武蔵守だけは任命しなかった。恐らく興世王に対する配慮からであろう。そして、下総石井(いわい)郷に王城を建て、文武百官を定め独立王国を樹立したと伝えるが、その実現性には疑問がある。
その後将門は、武蔵・相模などまで巡検して印鑰を手中に入れ、翌三年正月中旬に、常陸に攻め入って宿敵の平貞盛を探索した。貞盛は下野へ行って押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)と同盟して四〇〇〇の兵を率い、将門側一〇〇〇の軍勢に対抗しようとした。その時、将門軍は貞盛追捕を断念して兵を帰し手薄となったため、秀郷・貞盛連合軍に対し、一時は圧倒したがやがて風向きが変わってついに敗れた。二月十四日、将門は、「神鏑(しんたく)」に当たり猿島郡北山であえなく戦死し(『将門記』)、ここに将門の新王国建設の夢は挫折(ざせつ)した。政府任命の征討軍到着以前のことである。
こうして平将門の乱は藤原秀郷・平貞盛という坂東の土豪の手によって鎮圧された。この乱に対する政府の対応はきわめてあいまいで、坂東のつわものたちの力を大いに示す結果となった。また、在地領主制の成長の面でも大きな影響を及ぼした。秀郷・貞盛の両者は戦功を賞されて、秀郷は従四位下下野守(後に武蔵守)、貞盛は従五位下に叙され、その子孫や一族が坂東武者として勢力を拡げる基をつくった。

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