北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第2節 幕府政治と御家人

北条氏の武蔵掌握
頼朝政権は、成立基盤を公領と荘園体制に置き、自らも貴族層出身として、京において源家再興の志をもつという保守的伝統的な基盤に拠っていた。このため自立的な東国領主層との間には、本質的にその基盤を異にし、両者の間には微妙な対立と矛盾が伏在していた。有力武士は、頼朝や後の北条氏にとって何物にも替え難い御家人や同輩であるとともに、また反面警戒すべき相手でもあった。寿永二年(一一八三)の冬、頼朝が挙兵以来の最大の功臣の一人である豪族的領主の上総介広常を不意に殺害したことや、義経との姻縁をもって河越重頼を誅殺したことなどはその例であろう。
しかし頼朝の生存中は、彼の人格的権威とすぐれた指導性、および御家人層との私的人格的結合によってその矛盾はさほど表面化しなかったが、正治元年(一一九九)正月に頼朝が死去し、代わって頼家が将軍となると、これを機に御家人内部に将軍独裁ーわけても将軍側近衆に対する不満が爆発した。北条時政は、若き将軍頼家の気儘(きまま)な行いを警戒するとともに、外戚(がいせき)の比企氏の勢力拡大を恐れ、頼家の幕政専決を止め、尼将軍政子と謀って、訴論は時政・義時・比企能員(よしかず)・安達盛長(もりなが)・足立遠元ら有力御家人と側近者十三名の合議制とした(古代・中世No.七三)。
しかし、まもなく御家人間の対立は表面化し、その動向は武蔵武士にも大きな影響を与えた。まず侍所の所司でかって頼朝の寵臣(ちょうしん)であった梶原景時(かじわらかげとき)が失脚し(古代・中世No.七四)、ついで時政と比企氏の対立が生じた。建仁三年(一二〇三)八月、頼家の病いを契機に、時政と政子は将軍の権能を二分して、関西三八国の地頭職を弟の千幡(せんまん)(実朝(さねとも))に、全国守護職と関東二八国の地頭職を頼家の嫡子一幡(いちまん)に讓与させる計画をたてた。これを知った能員は時政の陰謀を怒り、時政討伐を謀ったが、逆に九月二日仏事にことよせて誘殺され、比企一族と一幡は小御所に攻め滅ぼされた(古代・中世No.七五)。比企氏の乱後、時政の政治的地位は急激に高まり、同年九月、実朝が将軍職につくと、大江広元と並んで政所別当となり、将軍後見の地位について執権政治の端緒を開き同時に武蔵掌握に努めた。
このころ時政と共に勢威を振るった牧氏の女婿平賀朝雅は、武蔵守として、武蔵の国務を執行したが、建仁三年九月の比企氏追討後は京都守護として上洛した。『吾妻鏡』ではその直後に、北条時政が和田義盛を奉行として武蔵国の御家人たちに対し、時政に二心を抱かぬように厳命しているが、これは朝雅留守中の武蔵支配を朝雅の舅(しゅうと)の北条時政が掌握していたことを示すものである。以後武蔵支配には北条氏の力が及ふことになる。
しかし、幕府の権勢を握った時政に対し反感を持つ者も多く、後室牧の方のことから嫡子義時や政子とも不和を生じた。時政と朝雅は、幕府内の実権掌握のために有力御家人の排除を策し、この北条勢力浸透の障害として武蔵国の実力者で武蔵国総検校職を有する畠山重忠が狙い擊ちされ、元久二年(一ニ〇五)六月二十二日、武蔵二俣川(横浜市旭区二俣川町)で重忠父子が北条氏の野望のまえに謀殺されたのである(古代・中世No.七七)。朝雅は重忠に叛意(はんい)のあることを牧氏に讒言(ざんげん)し、牧氏と時政は、稲毛重成(いなげしげなり)・榛谷重朝(はんがやしげとも)らと謀って、時政の女婿重忠と重保父子を武州二俣川(ふたまたがわ)に誘殺したのである。この重忠叛逆については、義時ははじめから疑念を持ち、のちに虚言とわかると稲毛・榛谷氏を誅滅(ちゅうめつ)し、時政をも失脚させた。
元久二年閏(うるう)七月、牧氏陰謀事件で引退した時政に代わり執権となった義時も、有力御家人に対する抑圧策を積極的に進め、建保元年(一ニ一三)には和田義盛と衝突し、和田合戦が起った。この時横山党や春日部氏らが義盛側に参加して、一時は鎌倉の要所を占領する勢いを示した。しかし北条側の固い防禦(ぼうぎょ)と泰時らの奮戦で和田一族は敗れ、横山党をはじめ多くの武蔵武士も討死した。義時はこれを機に侍所別当になり、以後北条氏が政所と侍所の別当を兼ね、名実共に執権政治が成立した。
また、武蔵や相模においても、北条氏とその一族中の執権や連署が両国の守を兼ね、守護の職権をも行使した。特に武蔵では北条時房(ときふさ)が武蔵守の時、荒野開発令を発し、大田文の作成と郷司職を補任して支配体制を強化した(古代・中世No.七八~八二)。後には武蔵守と国務が分離し、北条得宗(とくそう)家が国務と守護を兼ねたので幕府の威令(いれい)は武蔵国内に最も貫徹した。

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