北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第2節 幕府政治と御家人

堀ノ内館跡と御家人石戸氏
堀ノ内館跡は、石戸宿堀ノ内一帯に広がる館跡である。これには不明な部分が多いが、発掘調査の結果や伝承などを吉川國男が詳細にまとめている(古代・中世P三〇八)。その後、石戸氏に関する新資料や東光寺石塔の石材産出地が同定されるなど、若干の新知見を得た。
館跡の大部分は標高二〇~二五メートルの台地上にあって、しかも台地の端部ではなく、奥まって占地しているのが特徴である。自然の谷と掘削した堀と低い土塁(どるい)によって縄張(なわば)りを構成している。中央に本郭、その外側に土塁と堀によって区画したニの郭(くるわ)、その外側が堀によって囲まれた三の郭(くるわ)である。全体としては「輪郭式(りんかくしき)縄張」によっている。

図8 堀ノ内館跡縄張り推定図

(『古代・中世』P308より引用)

写真25 獅子箱蓋裏絵図 石戸神社

本郭は方形で、東西一ニ〇メートル弱で北辺はやや広く、南北は九五メートルであったと推定される。地上遺構があるわけではなく、安政五年(一八五八)の「石戸神社御獅子箱蓋裏絵図」(写真25)の素描と、現況の地割りや家屋の向き・配置状態からの推測である。南辺は東光寺に通ずる道で限られていたであろう。本郭の南側は自然の谷を利用している。谷の底面は一七~一八メートルあり、谷幅は七〇メートルある。近代になって撤去されたがかって石橋が架けられており、大門の地名もあり、館の正門に当ると伝えられ大手口として良い。
二の郭は、堀と内側に低い土塁を巡らして区画している。本郭の北方に長さ約一五〇メートルにわたって堀が遺存している。平面形は略円を描いている。方形の本郭に対して円形の堀を巡らす例は少ないが、敷地を最大限に利用できる縄張りである。「獅子箱蓋裏絵図」には、内濠と表示しており、濠の内側に浅間大神、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神、八幡大神の三社を描き、東光寺は濠の内か外かが不分明である。つまり西側に続いている堀は東光寺に接する位置まで、東側の堀は浅間神社のさらに東側まで描いているのである。図8では堀の位置を推定線で表示したが、東光寺と浅間神社を堀の内側に取込むように東西ともにもう少しふくらむ可能性もある。堀の内側に高さが約一メートルの土塁が巡っている。図8No.4の土塁の南端は幅広で高さも二~三メートルと高く、櫓台(やぐらだい)跡と推定される。No.5・6・7の土塁は堀の外側に位置しており、喰違いの虎口(こぐち)形態となり、かっては堀を渡る橋が架っていたことが推定できる。No.9 ・No.10の土塁はL字形に巡っている。小規模の施設があったのかもしれないが、後世の盛土の可能性もある。二の郭は東西ニ一〇メートル、南北二六五メートルの北側の丸みが強い不整三角形を呈していたようである。
三の郭は、内堀と同じ力—ブで巡(めぐ)らした堀で区画している。上幅五.三メートル(約三間)、底幅一.三メ—トル(約四尺)、深さ二.三メートル(約一間二尺)ほどの規模で、断面は箱薬研(はこやげん)形である。西側は北部からの狭長に遡行する枝谷の谷頭に接続している。東側は未発掘で不明だが、「獅子箱蓋裏絵図」では外濠と表示し、やはり内堀に沿って巡っている。

写真26 堀ノ内館跡航空写真 石戸宿

外堀の西端から北に向って別の堀が延びている。発掘調査範囲が狭く、どこまで延びていくのか不明であるが、館跡の南を画する谷が東側へ館を大きく取り巻くように延びている。外堀から北方に向かって延びる堀となんらかの連携のもとに外巻き郭として機能していたのではなかろうか。
創築時の館の規模は、本郭ないしはせいぜい二の郭の範囲内であったと思われる。「獅子箱蓋裏絵図」にあるー寺三社のうち、東光寺と伊弉諾・伊弉冉二神を祀る石戸神社は現在もある。浅間大神は近年まで低い塚として残っていた。また八幡大神の社も跡地は明瞭である。東光寺には鎌倉時代末期ごろの銅造阿弥陀如来坐像、鎌倉時代と推定できる凝灰岩(ぎょうかいがん)製層塔、埼玉県指定文化財である貞永(じょうえい)二年(一二三三)銘板碑を代表に、建長三年(一二五ー)・寛元四年(一ニ四六)・文応元年(一二六〇)・弘安元年(一二七八)銘など初発期を含む一ニ〇〇年代の板碑七基が保存されている。これらの寺社の創設年代の特定はできないものの、四方を守護する四神の思想を変容させて取入れ、館の創設当初から何らかの神々を祠(まつ)っていたことを窺わせる。正方向の東西南北ではなく、方形の本郭の四隅の方位である概(おおむ)ね艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)の方向に寺社を設けた可能性が髙い。ー寺三社はその後身ではなかろうか。特に東光寺が持仏堂の後身とすれば、内堀は本郭と同時、もしくは本郭の直後に設けたものと考えることも可能である。創築年代について、本郭の規模からすれば平安時代末期から鎌倉時代初期までに該当するが、積極的に平安時代とする根拠がなく、鎌倉時代初期に比定しておきたい。外堀の掘削(くっさく)形態は鎌倉時代後期から南北朝時代前半期である。政情が緊迫していたことの現れではあろうが、少なくとも南北朝時代前半期ごろまでは館を拡張するぐらいには安定して営まれていたとすることが可能である。館の終焉(しゅうえん)は、石戸城と連続し室町時代後半であろう。
居館者については、蒲冠者源範頼(かばのかじゃみなもとののりより)とも石戸左衛門尉(さえもんのじょう)とも伝えられてきた。東光寺には江戸時代中期の作と思(おぼ)しき範頼と亀御前の位牌があり、範頼伝承が少なくとも江戸時代中期まで遡(さかのぼ)る古い伝承であることは確かてある。しかし、範頼を居館者とするには無理があり、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『玄同放言(げんどうほうげん)』の考察以来、石戸左衛門尉に比定されている。
石戸左衛門尉については、『吾妻鏡(あずまかがみ)』寛元三年(一ニ四五)八月十六日に鶴岡八幡宮で行われた馬場の儀の条、同四年八月十五日の鶴岡八幡宮で行われた放生会(ほうじょうえ)の条に名前が記録されている(古代・中世No.一〇一 ・ 一〇二)馬場の儀の列では、十列(とつら)・流鏑馬(やぶさめ)・競馬と続く中の十列の三番手である。また、放生会の列では、先陣の随兵・諸大夫・殿上人・御車・御後五位と六位・後陣の随兵・参会の廷尉と続く中の五位と六位の中に記されている。馬場の儀は、流鏑馬などが行われ、衆目を集める華かな行事で、三年の馬場の儀は「結構去年のごとし」とあるが、続いて「希代の壮観なり」とも記録された年で、面目躍如(やくじょ)といったところである。放生会は鶴岡八幡宮の神池に魚を放す儀式で、被物は立烏帽子(えぼし)か風折烏帽子、上は袖口から括紐(本来は袖を括るときに使用する)を垂らした狩衣(かりぎぬ)、下は括袴(くくりばかま)(六幅の狩袴?)、手には蝙蝠(かわぼり)(扇)の出立(いでたち)で参列した筈(はず)である。位階は従六位上であり、この両年前後が石戸左衛門尉の得意絶頂期であろう。

写真27 六条八幡宮造営注文

(国立歴史民俗博物館所蔵)

近年、京都六条の八幡宮(慶長十年<一六〇五>に現在の京都府東山区へ移転)造営に係わる「造営注文」の文書が報告された(海老名尚・福田豊彦「「六条八幡宮造営注文」について」『国立歴史民俗博物館研究報告紀要第四五集』一九九二)。この文書は永和元年(一三七五)のものであるが、主たる内容は建治元年(一ニ七五)の写しである。造営料を負担した人々の中に「石戸入道跡八貫」とある。海老名・福田の研究により、石戸入道は石戸左衛門尉と同一人物の可能性が高いという。この記録により、『吾妻鏡』の記事以後に、石戸氏が在俗で名目だけであろうが出家の形をとったらしいこと、家督を譲ったらしいこと、建治元年にはすでに故人だったことを知ることができる。また、『新記』高尾村の項には、泉蔵院の阿弥陀堂に係わる伝承中に「石戸頼兼」の名を記している。伝承では石戸にあった阿弥陀堂を移したとあり、石戸左衛門尉の実名もしくは石戸氏の一族であろう。石戸宿では名を失ったが、高尾では伝承していたということだろうか。平成四年(一九九二)阿弥陀堂の隣接地で、館に付随すると考えられる堀の一部を発掘調査した。館の時期を特定できないが、石戸頼兼が主(あるじ)である可能性もある。が、建治年間(一ニ七五~七八)からすれば五五〇年ほど後に記録した伝承であり、実在人物かどうかすら定かでない。
東光寺板碑群の内、貞永(じょうえい)二年(一二三三)の板碑(笠塔婆の可能性もある)は県内で四番目に古い板碑である。最古から三番目に古い板碑まですべてが大里郡江南町に集中して所在することからすれば、鎌倉時代中期に大宮台地で最初に板碑を導入できた人物は、近隣地域では突出した力量をもった人物である。さらに東光寺は板碑よりも「蒲桜」で人口に膾炙(かいしゃ)しており、その蒲桜の根元に一基の石塔がある。江戸時代の地誌類以来五輪塔と記されてきたが、層塔であろう。凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、今では風化が著しく見る影もないが、造立当初は純白の美しい塔であったろう。石材の産出地分析では、初層は群馬県新田郡笠懸村天神山の凝灰岩であることが判明した。基礎と笠部は天神山凝灰岩ではなく、また天神山の近くの石山からもかっては凝灰岩を切出しているが、石山の凝灰岩でないことが判明した。さりとて産出地はつきとめられていない。今後は比企丘陵の凝灰岩との対比が必要になってくる。大宮台地では凝灰岩製の石塔類は無く、混成ではないと解していたが、産出地が違えば、二基以上の混成塔と考えた方が素直であろう。
それはともかく、県内の天神山凝灰岩製の石造物は、熊谷市・大里郡岡部町・大里郡川本町に五輪塔が五基、石山の凝灰岩の可能性が高い石造物は大里郡川本町に五輪塔一基がある(国井洋子「凝灰岩石材と中世石造文化圏」『群馬歴史民俗第十号』一九八八)。すべて県北地域で見つかっており、東光寺層塔は大宮台地で初めての確認例である。貞永年間(一二三ニ~三三)における板碑の導入や天神山凝灰岩製の層塔は、上野国や県北地域と密接な関係を維持し得た証である。あるいは荒川(和田吉野川)対岸の小見野氏をはじめ、越辺(おつべ)川流域の児玉党に属する諸氏との関係を介在しての県北地域との関係であったろうか。石戸に隣接する地域を治める一介の土豪にはできかねることである。中央政界に乗出していった御家人石戸氏およびその一族にしてはじめて可能なことであろう。
先の「八幡宮造営注文」では、武蔵国では八四名が五八四貫文を負担している。一六.七パーセントにあたる一四名が二〇~一〇貫文で、八三.三パーセントの他の御家人は八~三貫文である。文書全体でも五〇〇貫文を最高額とする北条一門のニ二名は別格とし、その他の大口負担者を除くと七六パーセント三五六名の御家人は八貫文以下である。福田は造営料の大小は、基本的には所領規模によると推察している。石戸左衛門尉の所領規模は多くの御家人と互角といえよう。「石戸入道跡」だけからは所領を継承したのは石戸氏とは限らないが、館が南北朝時代の拡張まで確実に続いており、石戸左衛門尉の嫡子が継承した可能性が高い。石戸左衛門尉の支配地は、中世末に石戸郷、近世に石戸領と称された鴻巣市西南部から上尾市西北部にかかる原馬室・瀧馬室・高尾・荒井・石戸宿・下石戸上・下石戸下・川田谷・日出谷・藤波・畦吉・小敷谷など大宮台地西縁の村々に及び、農業生産とともに荒川の舟運にも深く関与していたことを窺わせる。
堀ノ内館は、鎌倉御家人の館として遜色(そんしょく)のない構えである。おそらく石戸左衛門尉の父もしくは祖父が、鎌倉時代初期に館を構え、貞永年間から文応(ぶんおう)年間(一二六四~七五)くらいを最隆盛期とし、南北朝時代に外堀を設け拡張し、室町時代後期ごろ、石戸城築城と共に廃館されたと推察されるのである。

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