北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第3節 承久の乱と御家人の動向

武蔵国総検校職(そうけんぎょうしき)の再興

写真28 吾妻鏡

(北条本)  (国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)

承久(じょうきゅう)の乱に勝利し、武家政権を確固にした北条義時は、貞応(じょうおう)三年(一ニニ四)六月死去し、後継の執権に嫡子(ちゃくし)泰時が就任した。泰時は執権就任直後に、大江広元や北条政子らがあいついで死亡したため、六波羅探題であった叔父北条時房を招き、時房とともに幕府政治を行った。嘉禄(かろく)元年(一二二五)十二月には合議により裁判を行う「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を任命し、貞永(じょうえい)元年(一二三二)八月には、御家人の規範となるべき「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」五十一か条を制定するなど、合議制と法治主義とを二本柱とするいわゆる執権体制を確立した。
この泰時執権時代に起きたのが、河越重員(しげかず)による「武蔵国総検校職」への復職申請であった(古代・中世No.九二)。武蔵国の国司は北条時房、ついで大江親広(大江広元の子)、さらに承久元年(一ニ一九)十一月以来北条泰時が就任していた(『武家年代記』)。河越重員は、執権であり武蔵国司でもある泰時にその復職を希望し、嘉禄(かろく)二年(一ニ二六)四月泰時により総検校職に補任されたのである。もともとこの職は、重員の先祖の秩父出羽権守重綱以来秩父氏一族が任命されており、河越重頼(かわごえしげより)・畠山重忠など秩父平氏の子孫らに継承されていた。しかし重忠が元久二年(一ニ〇五)六月に追討された以後は(古代・中世NO.七七)、武蔵国司がその職を代行しており、従って今回の河越重員による復職申請となったものであった。
希望どおり復職がかなった重員であったが、寛喜(かんき)三年(一二三一)四月、本来行っていた警察権の行使や国衙行政への直接参加などの総検校職の職権がまったく行使できず、名目的なものとなっていると、再び職権の回復を願う訴状を提出した。この訴えに接した泰時は、さっそく武蔵国衙に現状の調査を命じ、武蔵国の在庁官人らの返答書にもとづき、改めて重員にその職権を承認・安堵(あんど)している(古代・中世No.九三・九四)。しかし泰時が承認した職権は、北条氏が武蔵国を直接統治している現在、その統治の障碍(しょうがい)になることは目に見えており、結局は実質的な権限を返さなかったらしく、重員の子重資が建長(けんちょう)三年(一二五一)五月に同職に任命された以後は、その職名が史料上にみえなくなってしまった(古代・中世No.九六)。
執権政治を確立した北条泰時は、仁治(にんじ)三年(一ニ四二)に亡くなり、子の経時があとを継いだ。執権に就任した経時は、在職二十年に及び、北条氏の一族名越(なごえ)氏や有力御家人らを含め政界に隠然たる影響力を持ち始めていた将軍頼経に危機感を抱き、寛元(かんげん)二年(一ニ四四)四月、頼経の代わりにその子の頼嗣(よりつぐ)を将軍とし、あわせて頼経と親しかった武士らの交替を行い、その勢力の弱体化をはかった。翌三年八月新将軍頼嗣は、鶴岡八幡宮で行われた放生会(ほうじょうえ)に参会しているが、それに布衣衆(ほいしゅう)として石戸左衛門尉と足立直光の名がみえる(古代・中世No.一〇一)。彼らは、今回新しく供奉人(ぐぶにん)として加えられた者たちであった。
石戸左衛門尉は、当市を本拠地とする御家人と思われるが、実名および出自(しゅつじ)などは残念ながら不明である。現在市内には多くの中世城館跡が残されているが、そのうちの一つが「堀ノ内館跡」である(本章第二節参照)。この館跡は、石戸宿字堀ノ内に所在し、「石戸(いしと)の蒲桜(かばざくら)」で有名な東光寺の境内一帯にあたる。中心部は方形の本郭があり、その外側にニノ郭・三ノ郭が三角状にとりまいており、全体の面積は一〇万平方メ—トルといわれている。江戸時代後期に編集された『新記』によれば、「又土人ノ伝へ二村内小名堀ノ内ハ、往古石戸左衛門尉ノ住セシ地ナリ」とあって、石戸左衛門尉との関係があったことが記されており、さらに堀ノ内館跡と思われる一帯には、石戸氏との関係があったと推測される多くの遣物や伝承などが残されている。このように市域と関係のあった石戸氏は、翌寛元四年(一ニ四六)八月十五日に行われた鶴岡八幡宮放生会に、同じく将軍随兵の一人として見えた以後は史料に登場しなくなり、以後の石戸氏の活動は不明である(古代・中世No.一〇二)。
さて将軍藤原頼経勢力の弱体化に成功した経時は、まもなく病気となり、寛元四年には執権を弟の時頼に讓った。この北条氏嫡流(ちゃくりゅう)の混乱に乗じ北条氏一族の名越(なごえ)光時らが前将軍頼経をたてて幕府の実権を握ろうとしたが、時頼側のすばやい対応の結果、光時らの陰謀を事前につふし、主謀者の光時らを配流(はいる)とし、頼経を帰洛させた(宮騒動(みやそうどう))。
この政争の事後処理にあたり三浦氏は、前将軍頼経との関係もあって、時頼提案の北条重時の連署就任に反対し、三浦光村(泰村の弟)の前将軍頼経への挙兵を促(うなが)したとの噂など、三浦氏と北条氏の関係は微妙なものとなっていった。執権時頼の外戚(がいせき)安達景盛(法名覚智(かくち))は、三浦氏の政治的動向に疑いをもち、以後さまざまな挑発行為を行った結果、宝治(ほうじ)元年(一ニ四七)六月、両者の全面衝突となった。しかし三浦氏側の劣勢はどうにもならず、同月五日鎌倉の法華堂において三浦泰村以下五百余人が自害して終わった(古代・中世No.一〇三)。合戦終了後も幕府による三浦氏与党に対する追求が行われ、上総では千葉秀胤(ひでたね)が敗死し、関政泰の家来らが捕えられた。

写真29 堀ノ内館跡の景観 石戸宿

幕府は、三浦氏与党の追討を行う一方で戦後処理を行っており、三浦氏が守護職を保有していた相模(さがみ)・河内(かわち)・土佐(とさ)・讚岐(さぬき)の四か国は、いずれも守護に北条氏が就任し、三浦氏とそれに味方した武士たちの所領が勲功のあった諸将に与えられた。なかでも北条氏は、武蔵国内の利根川流域にあった大河戸御厨(みくりや)や春日部郷など旧三浦氏所領を獲得し、それ以前にすでに所領化に成功していた太田庄や下河辺(しもかわべ)庄などとあわせると、この時点で埼玉県の東部地域一帯を手に入れたことになり、武蔵国内に確固たる存在基盤を築き上げた。

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