北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第4節 御家人の動揺と得宗

霜月騒動と安達・足立氏
宝治合戦で三浦氏を倒した北条時頼は、康元(こうげん)元年(一ニ五六)十一月に出家、家督を嫡子時宗(ときむね)に讓った。ついで北条長時を執権に任命し、時宗の補佐にあたらせたが、政治の実権は依然として時頼が掌握していた。それにともない幕政の重要政策は「寄合(よりあい)」と呼ばれた時頼邸で行われた会議で討議され、決定される状況となった。すなわち北条得宗(とくそう)が幕府政治の実権を握り、政治をとる「得宗専制政治」と呼ばれる政治体制ができあがった。
文永(ぶんえい)五年(一二六八)三月、時宗が執権に就任し本格的に政治を行い始めた。時宗時代になるとますます得宗(時宗のこと)の専制化が進み、「寄合」が幕府政策決定の唯一の機関となり、従来の執権を中心とする執権体制は、まったく名目的なものになり、その中心として活曜した評定衆(ひょうじょうしゅう)たちの職務も形式的なものとなった。これと同様な動きは武蔵国についてもみられ、武蔵国衙(こくが)の実権は得宗により掌握されており、国司としての武蔵守はまったくの名目的な存在にすぎず、従って図10の北条氏略系図をみてもわかるように、北条氏一門のものたちがつぎっきと就任する状態になった。

図10 北条氏略系図

時宗が執権在職中の最大事件といえば、蒙古軍の襲来すなわち「元寇」である。時宗以下幕府の首脳は、超大国元を迎え討つためのあらゆる努力を行ったが、その一つが九州に所領をもつ東国御家人への九州移動命令であった。こ結果恩賞などで九州に所領を持っていた足立氏・河越氏・小代氏・大井氏などの庶流が、武蔵国から離れ九州に下っていった。
二つめは文永(ぶんえい)九年(一ニ七二)に出された武蔵国などへの大田文提出命令である。蒙古軍に対抗するため御家人たちの所領の実際を確認し、御家人役の賦課を目的としたものであった。以上のニ点はいずれも蒙古軍に対抗するためにとられた政策であったが、九州移動命令は結果として九州に幕府の影響力を及ぼすこととなり、大田文の提出も、従来国衙を通じて行われていたものを、国衙にかわって守護がとり行っており、実質的には守護による国衙機構の掌握ということになり、これらの政策により北条得宗の勢力は全国的なものとなり、一層安定強化されたといえよう。
弘安(こうあん)七年(一二八四)四月、北条時宗が急死し、そのあとを嫡子貞時がついだ。貞時は若年であったため外祖父の安逢泰盛が幕府の政務を担当した。安達氏自身が御家人出身の武士であったこともあるが、幕府の中心となる多くの御家人たちが、分割相続の進行や貨幣経済の侵透、元寇にともなう出陣命令などの諸事情により、経済的に困窮し始めているのをみるにつけ、幕府の危機と考えた安達氏は、以後御家人の救済・保護を目的とする政策をとり始めた。御家人の所領をめぐる裁判のみを担当させる引付衆(ひきつけしゅう)の任命と法律の制定、「徳政(とくせい)」と呼ばれる所領無償回復令などがそれである。
安達氏のとった政策は、泰盛とともに幕政を運営していた内管領平頼綱(ないかんれいたいらのよりつな)を代表とする得宗の被官人(御内人(みうちびと))らの反発をかい、ついには御家人層と御内人との対立にまで発展し、弘安(こうあん)八年(一二ハ五)十一月、泰盛らは貞時らの追討をうけ敗死した(霜月騒動)。泰盛とともに戦死した者のなかに足立直元(あだちなおとも)・二階堂行景(にかいどうゆきかげ)・佐原頼連(さわらよりつら)・足利(あしかが)(吉良)満氏(みつうじ)などのそうそうたる御家人たちばかりでなく、安達氏の守護国である上野国やその影響力が強かった武蔵国の御家人たちの多くも敗死した(古代・中世No.一〇七・一〇八)。この騒動は、これだけではおさまらず、事件の関係者がいた常陸国(ひたちのくに)・信濃国・播磨国(はりまのくに)、ついで九州でも合戦が行われるなど、全国的にその影響が及んだ。従って乱後の処理はかなり厳しく行われ、泰盛の婿の金沢題時(かなざわあきとき)は流罪、評定衆の宇都宮景綱(うつのみやかげつね)・長井時秀(ながいときひで)、引付衆の長井宗秀(ながいむねひで)、問注所(もんちゅうじょ)執事の三善時連(みよしときつら)らが罷免(ひめん)され、幕府の中枢から安達氏を代表とする御家人勢力は一掃されてしまった。
この霜月騒動は、鎌倉幕府後期の最大事件であり、この結果御家人層は幕政からまったく締め出されるかたちとなり、得宗を中心に北条氏一門と御内人らにより幕政が運営される体制となった。

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