北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第4節 御家人の動揺と得宗

番場宿の悲劇と幕府崩壊
北条貞時のあとをうけて得宗(とくそう)となった高時の代になると、幕府政治は得宗とこれをとりまくひと握りのものたちにより行われており、「恐怖(きょうふ)政治」と呼ばれる強権主義のため、人々の心は北条氏から離れはじめた。そして以前から行われてきた政治の矛盾(むじゅん)が表面化し、さらに貨幣経済の発展と分割相続の進展にともなう御家人の窮乏化(きゅうぼうか)、治安機能の低下からくる悪党の活動や相次いで発生する全国各地での反乱など、政治・社会などあらゆる面において混乱が生じはじめた。このような事態になっても北条氏側は何ら政治的に有効手段がとれず、逆に一層強圧的な態度で臨むありさまであった。
一方京都では、文保(ぶんぽう)二年(ニ一二八)に後醍醐(ごだいご)天皇が皇位につき、吉田定房(よしださだふさ)や北畠親房(きたばたけちかふさ)らの登用、それにともなう記録所の復活など朝廷の政治機構の改革に積極的にとりくみはじめた。また天皇は、中国で盛んであった宋学の影響をうけ、幕府の存在そのものに批判的であり、幕府政治の腐敗混乱ぶりを見聞するにつけ、いよいよ討幕の意志を固め、正中(しょうちゅう)元年(一三二四)と元弘(げんこう)元年(一三三一)の二度にわたり挙兵した(「正中の変」「元弘の変」)。とくに元弘の変では、畿内にいた反北条勢力とともに挙兵したため、その影響の拡大をきらった幕府は、大仏貞直(おさらぎさだの)や足利高氏らを派遣して鎮圧にあたらせた.〇武蔵関係者では、安保道潭(あぼどうたん)・河越貞重(かわごえさだしげ)・高坂出羽権守らが軍勢を率いて参加している(『光明寺残篇(こうみょうじざんぺん)』)。結局この乱は幕府軍の攻勢のまえに失敗し、天皇は捕えられ隠岐(おき)(島根県)に流された。
しかし、乱平定後も武士たちの反乱は各地でくり返し起きており、元弘三年には楠木正成(くすのきまさしげ)が後醍醐天皇皇子の護良(もりよし)親王を奉じて再度蜂起した。幕府は在京の御家人らを中心に鎮圧にあたらせたが、苦戦してなかなか鎮定できなかった。閏(うるう)二月に入ると反乱は全国的なものとなり、隠岐にいた後醍醐天皇も伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうせん)(鳥取県赤碕町)に拠(よ)り、討幕の命令を全国に発した。
幕府は三月には名越高家(なごえたかいえ)と足利高氏を大将とする幕府軍を上洛させ、鎮圧にあたらせた。伯耆の後醍醐天皇討幕に向かった足利高氏は、丹波国篠村(しのむら)八幡宮(京都府亀岡市)の宝前で反旗を翻(ひるがえ)し、逆に六波羅追討のため京都に向った。高氏謀反の知らせを聞いた六波羅探題の北条仲時と同時益は、守りにくい京都を離れ、近江国を通り鎌倉に逃れようとはかったが、途中時益は野武士らに首を射られて戦死し、さらに近江の在地武士らに進軍を阻(はば)まれた結果、五月七日近江国番場(ばんば)(滋賀県米原町)の蓮華寺(れんげじ)で北条仲時一行四三〇余名が自殺し、畿内以西ににらみをきかせていた六波羅探題は滅亡した。自殺した人々のなかに足立則秋(あだちのりあき)・同則利(のりよし)・同則幌、片山祐珪・同祥明、河越乗誓、豊島重経(としましげつね)・同家倍(古代・中世No.一一三)、満王野藤左衛門(『太平記』巻九)などの名前がみえており、いずれも北条氏との被官関係から北条仲時に殉(じゅん)じた者であろう。

写真32 陸波羅南北過去帳

滋賀県米原町蓮花寺蔵 (埼玉県立博物館提供)

一方関東でも、後醍醐天皇や足利高氏らの挙兵催促をうけた新田義貞(にったよしさだ)が、五月八日上野の生品(いくしな)神社(群馬県新田町)で挙兵、鎌倉から脱出してきた足利高氏の嫡子千寿王(せんじゅおう)(のちの足利義詮)を奉じ、鎌倉街道を下り鎌倉をめざして進軍した。途中河越氏・江戸氏・豊島氏・武蔵七党以下の武蔵武士を糾合(きゅうごう)した義貞軍は、同十六日には武蔵の分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)などで鎌倉から出陣してきた北条泰家(高時の弟)を大将とする北条軍を破り、これをさかいにいっきに鎌倉を攻撃し、十八日には鎌倉に攻め入り、激戦のすえ北条高時らを破った。敗れた北条高時以下八百余人は、鎌倉の東勝寺で自害し、ここに約百五十年間続いた鎌倉幕府は滅亡した(古代・中世No.一一四)。


<< 前のページに戻る